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むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

このコンテンツでは
過去の「昔のことせ! ー村上むかし語りー
再掲しています。

 

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著者は村上市の郷土史研究家
大場喜代司さん(故人)です。

 

石田 光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。

 

2024/05/15

040 領主の交替と四万石領騒動(4)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

幕府の辰の口評定所(寺社・勘定・町の三奉行所で、江戸城の辰の口にあったことからそう呼んだ最高裁判所である)は、「その方らの要求、つまり村上藩領から幕府領への編入替えはならぬ。これ以上、要求を続けるならば、その方ら代表を重罪に処す」と申しわたした。重罪とは、磔獄門[はりつけごくもん]か、軽くて島流しである。それを受けた関係組村の百姓は、太田村の三五兵衛をはじめとする3名を事情説明のために評定所へ出頭させる。

 

すると評定所の役人は、「問答無用、搦[からめ]とって牢にぶちこめ。それに村村でも不穏な言動をとる不逞[ふてい]な輩[やから]があれば、ひっ捕えて、罪の軽重に従い、死罪・遠島・追放を申しつけ、その者らが所有する田畑は幕府が没収する」そう命じたものだ。

 

間もなくそれらの村村から不穏な噂が聞こえてくる。新井白石の耳にも、「お上は、おれらの言い分には少しも耳を傾けず、あまつさえまったく理不尽なことをばする。これがご公儀のなさることか。これがご政道であれば、以後、おれらは代官の命には従わぬ。もちろん年貢なぞ米一粒たりとも納めねえ」と百姓らは硬化し一致団結した。とはいえ四万石領の各村すべてという訳ではない。庄屋や村役人の説得に従って忍従した村もある。

 

このとき幕府の代官所は北蒲原郡黒川にあり、代官は河原清兵衛が派遣されていた。噂は噂を呼んだ。「河原は評定所の命令を受けて首謀者58名を捕縛した。すると百姓らはますます激高。騒乱は名状しがたいものとなった」「いやさ58名を罪に落とさば、100人で出訴すべし。100人でだめなら4000人で出訴する」と言う者があれば、「いやいや、評定所へ訴えるのみならず、黒川の代官河原某[なにがし]、あの代官が悪い。あの代官がろくにことの次第を調べもせずにいるからだ。それと大庄屋らもだ。百姓の生活を踏み台にして私腹を肥やしているのだ」。するとさらには、「まだ納めていない年貢米があろう。あの米をば船積みして他国へ売り払ってしまえ。年貢の徴収ができなければ代官の落ち度となり、さらには公儀の減収となるからの」。

 

公儀の年貢米を不法売却とは前代未聞の大科[とが]ごとだ。大庄屋や庄屋は腰の抜けるほど驚いた。そして顔を蒼白にして、頬を引きつらせながら村村を回り、「年貢米を売り払うとは天下の大罪。その罪は下手人のみならず、おれらにもおよぶ。頼む、やめてくれ!」と説得にかかるが、百姓らは、「なにを言うか。そもそもこのような事態にたちいたった原因は、うぬら大庄屋にあるのだ。四の五のとごたくを並べてじゃまだてするな」と言って、一向に聞き入れようとはしないというのだ。大庄屋は茨曽根組の関根三左衛門らである。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2011年4月号掲載)村上市史異聞 より

2024/04/15

039 領主の交替と四万石領騒動(3)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

正月の話はまだあるが元に戻す。高年貢や諸掛り負担に耐えかねた百姓が欠落[かけおち]することも、領主に対する一種の抵抗で一揆の一つだ。しかし、その抵抗は数人、多くても数10人単位なもので、数百人が武器や農具を持って為政者や富裕者の屋敷を襲い、破壊や略奪行為に及ぶような一揆ではない。

 

一揆には、軍事力の補助として起こす政治的なものと住民が生活権の確保のために起こすものがある。けれど江戸中期ともなれば軍事的な一揆は皆無で、すべてが生活上から起きたものだ。江戸時代を通じて、幕政にまで影響を及ぼした大一揆の一つが「村上藩四万石領騒動」である。政治の歪みと大庄屋の横暴に端を発したもので、その顛末は新井白石の自叙伝『折たく柴の記』[おりたくしばのき]で知ることができる。

 

新井白石は明暦3(1657)年に生まれ、享保10(1725)年に没した。生家は武士であるが極めて貧しく、学問を志して政治的な地位にも就いたが、やがて容れられず、再び学問の道に投じた。彼の学問を深く評価したのが六代将軍・家宣[いえのぶ]で、白石を政治顧問として迎え、政策実行の第一人者・間部詮房[まなべあきふさ]とともに幕政にあたらせたのであった。

 

ひとも知る間部越前守詮房は、浪人の子として生まれ、不遇のうちに育ち、学問らしい学問をしておらなかったが、頭脳明晰・剛毅にして英邁な性格で、優れた政治的判断力で問題を即決していた。その点、今どきの政治家と自認する人々は、最高学府を出てはいるが、主義主張がはっきりせず、判断力も決断力も鈍い。詮房らとは雲泥の差がある。

 

村上四万石領騒動が勃発したのは、間部や新井が幕政に参加する前のことである。以下は『折たく柴の記』によって、その事件を実録風に書いたものである。

 

まず西・南蒲原郡と三島郡を合わせた四万石領が村上領に編入されたのは、慶安2(1649)年、松平大和守直矩[なおのり]が村上領主になったときである。その組は寺泊・渡部・地蔵堂・三条・一ノ木戸・燕・茨曽根・打越・釣寄・味方の10組で、10人の大庄屋が付き、各村には小庄屋が置かれた。これがそもそも騒動の発端となる。やがて村上領は本多忠良[ただよし]が領主になると、それまでの15万石から5万石に減知され、松平輝貞[てるさだ]の代に7万2千石になったが、四万石領は依然として村上領であった。

 

これに不満を持ったのがその領地の百姓で、かれらの代表は出府して幕府の評定所へ「なにとぞおれらの村々をば、御料[ごりょう]*にしてくだされ」と訴える。その嘆願に対し、奉行所の返答はにべもなく『百姓の分際で公儀の施政にくちばしを入れるとは、何たる大それたこと。ましてや領地替えの嘆願とはとんでもないこと。その旨、在所へまかり帰って皆の者に伝えよ』と叱られて帰国したのであった。その話を聞いた村々の百姓は真っ赤になって怒った。激怒したといってもいい。
*幕府直轄領

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2011年3月号掲載)村上市史異聞 より

 

2024/03/15

038 領主の交替と四万石領騒動(2)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

武家の経済悪化は兵農分離を実施したときからだ。それを切り抜けるため、幕府は金貨を改鋳し、藩は領民に高年貢を負担させ、奢侈[しゃし]*を禁止したりした。
*必要な程度や身分を越えたぜいたく

 

年貢賦課率は普通4割であるが、6割などと高い藩もある。村上・堀藩の場合では、4割で1反300歩制の一般的であるが、田地に等級を付けず、すべて上級として斗代[とだい]*を納入させる「一括斗代納入法」である。その結果、内高は10万石表高を上回り20万石余となった。これでも藩経済は苦しい。
*年貢

 

軍役負担が膨大なうえに、城郭建築や城下町の拡張工事、江戸と国元の二重生活などが大名家の過剰経費であるが、堀家の場合は将軍の脇備[わきぞなえ]*であるから、さらに多くの侍が必要であった。また、将軍の上洛にも多くの士卒を引き具して供奉し、京では饗応[きょうおう]役も務めねばならなかった。そのうえ将軍を自邸に招き、多大な出費をしている。
*本陣の左右に控える隊

 

そのツケが寛永10(1633)年頃にきた。矢のような借金の催促である。やむなく藩主・堀直竒[なおより]は、天海僧正(幕府の政策顧問)から銀30貫と幕府から2万5千両を借りて返済する。2万両は5万石の米代に相当する。すなわち5万石の大名の身代ということだから、豪勢な借金額であった。

 

その返済は、まず米を売ることと自分の所有する茶器などの高価な名品を売却すること。そして、徹底した倹約をすることであったが、米を売ると貯穀米がなくなり、作付けや飯米に差し支え、凶荒時にも危うくなる。そこで窮余の一策、徳政令[とくせいれい]を発することになる。すなわち家中間の借金を免除し、民衆の諸掛りを軽減することであった。また、鉱山開発や産業の奨励、そして奢侈の禁止である。直竒は、それらを侍はじめ民衆にも広く堅く守らせると共に、倅[せがれ]の直次[なおつぐ]にもきつく言い渡す。のみならず自分も率先して行う。

 

物品の管理は、竹・木炭・薪・縄・ぬか・わらなどに至るまで、役人に余計なものは買うなと命じている。藩で貯蔵する米穀は一切私用に貸さない。購入する物品はすべて藩主の許可を必要とし、金銭の出納は藩主の直判[じきはん]を必要とする。歌舞伎・操[あやつり]人形・猿舞・傀儡師[くぐつし]・ささらすり・虚無僧[こむそう]・鉢叩[はちたたき]などは屋敷内に入れるな。これら遊芸ものはぜいたくだ、というのである。

 

こうして藩主自ら節倹と金銭管理に取り組んだ結果、寛永20(1643)年までに幕府からの借金は返済することができた。しかし、民衆にかかる租税負担は解消したわけではない。欠落[かけおち]する百姓は各藩の随所にみられた。堀藩の場合も松沢村の百姓が小国(山形県西置賜郡小国町)へ欠落している。その欠落の多く発生したのは、松平大和守直矩[なおのり]が藩主のときであった。そのことは既述した。

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2010年12月号掲載)村上市史異聞 より

 

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