イラスト:石田 光和(エムプリント)
正月らしい歴史上の話題というとなかなか見つからない。何もせずに過すのが正月だからであろうか。食事にしても、餅を食い、作りだめした御節を食っているだけである。が、その御節には、その地方特有の産物を用いることが多い。鮭料理もその一つである。しかし、その一つ一つの名称の由来となると誠に面倒である。よく尋ねられることであるが、鮭の塩引き(塩引き鮭)はいつ頃から作られているのかである。
塩引き鮭について
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この質問に答えることはまず不可能だし、また、現在のような塩引きの製法がいつから行われるようになったかも知ることができない。そしてまた「塩引き」なる言葉がいつ登場したのかも分からない。この地方における「塩引き」なる言葉の初見となる文書は、伊達左京大夫輝宗から本庄雨順斎にきた書状である。輝宗は伊達政宗の父で、天文13(1544)年生まれ~天正13(1585)年没、居城は陸奥国伊達郡桑折[こおり]西山から米沢西郊の館山に移る。
雨順斎は繁長の僧名で、永禄11(1568)年に上杉謙信勢を向うに回して村上城に籠城し翌春まで戦い、3月18日に和睦したとき、謹慎して改名したものである。その前に繁長は、伊達と芦名を頼り和睦の交渉をしていたので、書状の日付けが2月20日とあるのは、その前後を考慮すると、その翌春ものと推察されよう。書状の冒頭には、如来章改年之御吉兆珍重々々[らいしょうのごとくかいねんのごきっちょうちんちょうちんちょう]、更不可有時期候[さらにじきあるべからずそろ]、抑為祝儀[そもそもしゅぎとして]扇子並、塩引共[とも]被指越之候[さしこされそろ]、大慶不斜候[たいけいななめならずそろ]、是[これ]も任折節[おりふしにまかせ]、猪皮[いのししかわ]五筒進之候[これをしんじそうろう]
現代文にすると「貴方の書状のとおり、年が改まりめでたいきざしです。さらに時期(機)にはありません。祝儀として扇子と塩引きが到来しました。大きな喜びです。当方よりも折節の猪皮5枚を贈ります。」このようになる。さらに「時機にあるべからず」は、いまだ世に出る機会に至っていない、という慰めの意味であろう。
とまれこの書状にある「塩引き」という文言は、本庄繁長から言い送った文言によって書いたもので、鮭を産地としない内陸部の桑折の言葉ではなく、あくまでも本庄(村上地方)の言葉であろう。しかし、その当時の「塩引き」とは、いかような製法のものであったか分からない。文字そのものの意味からすると、引くとは「一面に敷きつめる」ことで、『伊勢集』「前栽[ぜんさい]植えさせたまひて、砂ごひかせけるに」とあるのが初見のようだ。とすると「塩引き」の引きは、敷くであるとすれば、塩を敷いた上に鮭をのせ、その上にまた塩を敷いたもので、平安時代あたりの言葉が残ったものであろう。もっとも上方では、当今も引くことを敷くというとは『日本国語大辞典』にある。
ところで、その後の輝宗は安達郡宮森城から二本松城主の畠山義継に拉致されると、それを知った伊達勢が追跡して、義継もろともに銃撃してしまう。銃撃を命じたのは、畠山の滅亡を優先させた政宗であったともいう。
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2012年1月号掲載)村上市史異聞 より