イラスト:石田 光和(エムプリント)
風説はさらに立つ。風説とは、四万石領の百姓らはその年に収穫した米を他国の船に売り渡して、その金を軍事費に充てて幕府に弓を引く。つまり謀反を企てているというのだ。
そのことが新井白石の耳に入ると、白石は「それはおかしな話である。米を売り払ってしまえば食うに困る。謀反どころではない。またかの百姓らは、おのれらの村をば幕領にしてくれと願っているのじゃ。それらがなんで公儀に叛[そむ]く。叛くわけがどこにある」と言い、さらには「かの百姓らは耐えきれずに公儀へ訴えたのじゃ。その耐えに耐えてきたものは何が原因だったのか、それを糺[ただ]さねばならない。ただ互いに相怨み、相憎む心を改めねば、公平な判断はできない」と言っていたところ、それまでの奉行はすべて免職になり、新しく横田備中守・鈴木飛騨守・堀田源右衛門の3人が任ぜられた。将軍が綱吉から家宣に替わったための人事異動であるが、騒動の終息を図るための人事でもあった。それら奉行の任免権は老中にあり、将軍の決裁を受けて行うものだから、将軍の側用人・間部詮房の人事ともいえる。
横田ら3人を選んだ理由というのは、いかにも温和柔順[おんわじゅうじゅん]で衿哀心[こうあいしん・あわれみの心]のある人物ということであった。幕府内では当時、第一級の人格者といえよう。そこで、新任の奉行はかねてから入牢中の三五兵衛らを奉行所に召し寄せて尋問すると、「四万石領が村上さまの領地とされたのは60年前で、松平さまがご入封になられたときでござんす。」四万石領とは、三島郡[さんとうぐん]と蒲原郡[かんばらぐん]の一部を合わせたものであるが、のちの本多中務大輔忠良[ほんだ なかつかさのたいふ ただよし]のとき、2万石を公領として、2万石を村上領に編入した。その領地は、村上を離れること20里あるいは40里の遠隔地で、統治に不便な地である。そのことは奉行らも先刻承知である。
三五兵衛らは死を賭し、眥[まなじり]を決して「信濃川や中ノ口川、西川などの堤防が15~16里にもおよび、毎年春秋の雨どきは必ず破られ、その修理の費用また労力、それがためどれほど苦しんでいることか。それともう一つ、10人の大庄屋がいたところ、8組8人まで村上領に付けられました」そう言うと、奉行らは不審気に「その大庄屋がなんとしたと」。ここが先途と三五兵衛は声を震わせながら「これがまたひどい話で、組下の百姓を奴婢[ぬひ]のごとく召し使うし、自分勝手に役銭を賦課します。そのため、父母は凍えて飢え、兄弟妻子は離散する始末。とてもとても、暮らすもなにも、村そのものも潰れてしめえやす」そう言うではないか。彼らの態度・口ぶりからしても、まさかその言が嘘とは思われないが、さらに聞き糺してみると、三五兵衛らの言うことに誤りがないようだ。そこで奉行らは相談して「三五兵衛ら3人をば止めて、残り32人は国へ帰す。代わって大庄屋と庄屋を召喚して尋問すべし」。
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2011年7月号掲載)村上市史異聞 より