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むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

このコンテンツでは
過去の「昔のことせ! ー村上むかし語りー
再掲しています。

 

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著者は村上市の郷土史研究家
大場喜代司さん(故人)です。

 

石田光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。

 

2023/02/15

025 村上城下町の発展(3)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

村上城下初期の姿を記録した史料は、寛永12(1635)年の『村上惣町[そうちょう]並[ならび]銘々軒付之帳[めいめいのきつけのちょう]』で、内容は(1)(2)で紹介した。その時から70年を経た宝永2(1705)年では、いずれの町内とも軒数、世帯数とも急増している。また、加賀町や久保田(多)町も見られる。同町の成立年は明確さを欠くが、加賀町の成立は松平直矩[なおのり](15万)が姫路から転封されてきた慶安2(1649)年以後である。

 

それでは、どのように変貌を遂げたかを宝永2年の『村上寺社旧例記』にみると、羽黒町家数47軒、竈[かまど]数(世帯数)108軒。神社では羽黒神社、八幡宮、修験山伏の万宝院、正学院があり、寺院では常福寺、善沢寺、万福寺、長楽寺、龍皐院、妙心庵、観音寺、成就寺、天休院があった。

 

長井町は44軒、竈数71軒。寺院は浄国寺、行恩寺、広雲寺である。

 

上町は36軒、竈数32軒とある。大町は37軒、竈数31軒、寺院には十輪寺がある。

 

小町は47軒で竈数73軒。寺院は安善寺と法音寺である。

 

庄内町は74軒、竈数117軒に達している。寺院は専念寺と善龍寺であるが、修験は意伝[いでん]、養楽院、持福院、威徳院、知楽院、三明院の6院で、その統轄が意伝と称する山伏である。

 

加賀町は30軒、竈数80軒。修験の養福院、観宝院がある。

 

久保田町は53軒、竈数128軒で鋳物師屋敷が1軒。この鋳物師は、もと柏崎の大窪村にいた兵太夫(平野)をときの城主・榊原式部太輔が、寛文8(1668)年に村上城下に移住させ、同町の観音堂土居外(現 秋葉神社裏)に住まわせたものである。

 

片町は、堀片地内にあったものを松平直矩在城の寛文5(1665)年に現在地に強制移転させられたもので、88軒、竈数219軒に達していた。この軒数の急増ゆえ、のちに上片町と片町に分かれる。修験の智善院と観照院、真言宗の自在院、湯殿山行者の宝性寺があった。

 

塩町は松平直矩時代に現在の寺町地内から移ったもので、83軒、竈数198軒に急増している。寺院は地蔵院、修験は鐘学院、善明院、宝明院(観音堂)がある。

 

寺町は37軒、竈数73軒。寺院は浄念寺、その境内に正覚院と西福院がある。また経王寺、長法寺、妙法寺、西真寺があり、修験は大聖院と極楽院の両院である。

 

大工町は19軒、竈数44軒。寺院は善行寺と光済寺、湯殿山行者である。

 

小国町は60軒、竈数116軒。寺院は妙性寺、修験は宝積院と本妙院があった。

 

鍛冶町は21軒、竈数55軒。十二社神社が足軽組屋敷内にあった。

 

肴町は65軒、竈数140軒。寺院は最念寺、西宝院、真福寺、弥勒寺、観音寺、得願寺で、神社は川内大明神が馬喰町氏子持ちとしてあった。

 

細工町は47軒、竈数110軒。茶子町7軒、竈数22軒。六間町12軒、竈数23軒、寺院に本悟寺と西教寺があった。かつて新町と書いた安良町[あらまち]は42軒、竈数81軒。

 

城下の総家数831軒、竈数1699軒におよんでいた。もちろん商工業者の数も急増している。そのことは次に譲る。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2010年1月号掲載)村上市史異聞 より

2023/01/15

024 村上城下町の発展(2)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

城下での職業集団は、大工町の大工9軒と鍛冶町の鍛冶16軒で、職業保護として無役(免税)の特権を与えられていた。

 

その他の職業を町内別に見ると、長井町に油屋、上町に風呂屋、庄内町に駕籠[かご]屋、新[あら]町に茶師(製茶師)がそれぞれ1軒ずつ。大工町には大据挽[おがびき=木挽]、桶屋、塗師[ぬし]が1軒ずつ。また小国町には研[とぎ]師、彫物屋、油屋、駕籠屋、馬喰[ばくろう]、大工が1軒ずつ。本塩町にはあかし屋(灯明)、葺屋[ふきや=屋根屋]、油屋が1軒ずつ。長岡町には大工1軒となっている。

 

馬喰町は馬喰(牛馬の売買や馬医)などがいた町であろうが、その人数は記されてない。が、8軒が無役の扱いを受けていたのでその人々が該当しよう。

 

片町は堀片にあった町ゆえについた町名で、久保多町はいまだ成立していない。ゆえに庄内町は出羽庄内道の出入口にあったためについた町名であろう。

 

以上のような職業分布をみると、建築関係と運輸業に携わる者が多く、風呂屋や茶師は異色である。また衣食業や他の消費物資の製造販売業者は皆無である。

 

およそ消費的商工業都市とは言いがたく、軍事的な防衛都市の臭いが濃厚であった。けれどこの時代の畿内では、流通経済都市としての城下町がすでに形成されていたから、町造りを推進する、城主・堀直竒[ほりなおより]や彼の側近の脳の中には、防衛と相挨[あいま]った経済中心の町の姿が描かれていたことは間違いない。以後はその方針通り、町は急成長を遂げてゆく。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2009年12月号掲載)村上市史異聞 より

2022/12/15

023 村上城下町の発展(1)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

堀丹後守直竒[ほりたんごのかみなおより]が入封[にゅうほう](領主が初めて領地に入ること)し、建設された村上城下には、羽黒町39軒、長井町42軒、六間町8軒、上町36軒、本加(鍛)冶34軒、大町37軒、小町34軒、下小町13軒、庄内町69軒、片町61軒、新[あら]町41軒、大工町19軒、小国町60軒、本[もと]塩町20軒、寺町28軒、新鍛冶町16軒、肴町42軒、長岡町12軒、馬喰町41軒、合計652軒であった。

 

この内、本鍛冶町は細工町にあり、本塩町は免町とも称し、寺町の東半分の場所にあった。

 

軒数は村上氏時代に比べると急増である。では、この人々はどこから入ってきたのだろうか。半強制的に村を潰して移住させられたと考えてよい。羽黒町の住民は、もと羽黒口あたりに住んでいた人々だし、長岡町は堀直竒が、前任地の長岡から連れてきた住民である。

 

また、堀時代を遡ること21年前、山居山の南側には垣茂村、松山村、とどめき村、ミ[み]なくち村、城下の東に中町村があったが、その後は姿を消すことから、これらの住民もまた新村上の住民となって町内を形成したものと考えてもよい。中貝村はのちに長岡町と馬喰町とともに肴町に入るが、この時点での中貝村は足軽(兵卒)屋敷地であった。防御を重要視した地域は、城下の南口にあたる羽黒町で城主や家老の屋敷を配した。また、東口の片町には10人の鉄砲足軽を置き、庄内町にも4人の鉄砲足軽と1人の槍足軽を配した。北面の小国町にも鉄砲衆を配置、その裏から肴町裏にかけても足軽屋敷で固めた。また、馬喰町の西端にも鉄砲屋敷があった。南面には飯野の侍屋敷がある。このように町人地といえど、兵卒との混成地であった。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2009年11月号掲載)村上市史異聞 より

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