むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

このコンテンツでは
過去の「昔のことせ! ー村上むかし語りー
再掲しています。

 

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著者は村上市の郷土史研究家
大場喜代司さん(故人)です。

 

石田光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。

 

2024/11/15

046 本庄繁長から伊達輝宗に贈った塩引き

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イラスト:石田 光和エムプリント

 

正月らしい歴史上の話題というとなかなか見つからない。何もせずに過すのが正月だからであろうか。食事にしても、餅を食い、作りだめした御節を食っているだけである。が、その御節には、その地方特有の産物を用いることが多い。鮭料理もその一つである。しかし、その一つ一つの名称の由来となると誠に面倒である。よく尋ねられることであるが、鮭の塩引き(塩引き鮭)はいつ頃から作られているのかである。

塩引き鮭について
https://www.sake3.com/iyoboya/116

 

この質問に答えることはまず不可能だし、また、現在のような塩引きの製法がいつから行われるようになったかも知ることができない。そしてまた「塩引き」なる言葉がいつ登場したのかも分からない。この地方における「塩引き」なる言葉の初見となる文書は、伊達左京大夫輝宗から本庄雨順斎にきた書状である。輝宗は伊達政宗の父で、天文13(1544)年生まれ~天正13(1585)年没、居城は陸奥国伊達郡桑折[こおり]西山から米沢西郊の館山に移る。

 

雨順斎は繁長の僧名で、永禄11(1568)年に上杉謙信勢を向うに回して村上城に籠城し翌春まで戦い、3月18日に和睦したとき、謹慎して改名したものである。その前に繁長は、伊達と芦名を頼り和睦の交渉をしていたので、書状の日付けが2月20日とあるのは、その前後を考慮すると、その翌春ものと推察されよう。書状の冒頭には、如来章改年之御吉兆珍重々々[らいしょうのごとくかいねんのごきっちょうちんちょうちんちょう]、更不可有時期候[さらにじきあるべからずそろ]、抑為祝儀[そもそもしゅぎとして]扇子並、塩引共[とも]被指越之候[さしこされそろ]、大慶不斜候[たいけいななめならずそろ]、是[これ]も任折節[おりふしにまかせ]、猪皮[いのししかわ]五筒進之候[これをしんじそうろう]

 

現代文にすると「貴方の書状のとおり、年が改まりめでたいきざしです。さらに時期(機)にはありません。祝儀として扇子と塩引きが到来しました。大きな喜びです。当方よりも折節の猪皮5枚を贈ります。」このようになる。さらに「時機にあるべからず」は、いまだ世に出る機会に至っていない、という慰めの意味であろう。

 

とまれこの書状にある「塩引き」という文言は、本庄繁長から言い送った文言によって書いたもので、鮭を産地としない内陸部の桑折の言葉ではなく、あくまでも本庄(村上地方)の言葉であろう。しかし、その当時の「塩引き」とは、いかような製法のものであったか分からない。文字そのものの意味からすると、引くとは「一面に敷きつめる」ことで、『伊勢集』「前栽[ぜんさい]植えさせたまひて、砂ごひかせけるに」とあるのが初見のようだ。とすると「塩引き」の引きは、敷くであるとすれば、塩を敷いた上に鮭をのせ、その上にまた塩を敷いたもので、平安時代あたりの言葉が残ったものであろう。もっとも上方では、当今も引くことを敷くというとは『日本国語大辞典』にある。

 

ところで、その後の輝宗は安達郡宮森城から二本松城主の畠山義継に拉致されると、それを知った伊達勢が追跡して、義継もろともに銃撃してしまう。銃撃を命じたのは、畠山の滅亡を優先させた政宗であったともいう。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2012年1月号掲載)村上市史異聞 より

2023/06/15

029 伊白丸という屋敷

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

松平直矩[なおのり]の正室は、出雲国(島根県)松江城主18万6千石の松平直政[なおまさ]の娘お駒である。直政は直矩の伯父であるから、直矩と駒はいとこである。

 

当時の結婚は、本人同士より家格が重視された。駒の輿入れを望んだのは直矩の家老らであった。これに対し、駒の父・直政は反対だった。駒が病弱だったからだ。が、ついにこの結婚は実現する。その花嫁行列たるや大名行列と変りなく、しかも52頭もの供馬[ともうま]まで伴っている。正室を娶[め]とったものの、はたしてお駒は子を産むことができようか気遣われるところだ。

 

そこで、家老らは直矩に側室を持つことを勧める。相手は東園大納言[ひがしぞのだいなごん]の娘お長[ちょう]だ。武家が公家と深い関係になることは、武家の貴種性を高め、かつその立場を引き上げることになる。かたや家臣や領民に対しては、権威を強めることになるので武家が求めた官位への願望の一種である。ただし、公家と縁組する場合は幕府の許可を得る必要があった。ゆえに松平家では長を召使という名目で、それも村上に迎え入れた。ときに長15歳。

 

駒は周囲の気遣いが適中、流産して自分も死んでしまう。長の村上入りは寛文3(1663)年9月27日のこと。

 

その前、長を迎える話が整うと、直矩は長のために別邸を建てる計画を立てた。場所は城山麓の東に位置し、最も早く朝日が当たるところだ。建築物は同年6月には完成している。なかには常盤屋や藤の茶屋と称する数奇屋(茶室風に造った建物)もあり、これまで村上には見られなかった上方風のあか抜けした家屋であった。

 

作庭にも意を注ぎ、珍奇な石を配し、泉水を掘り滝を造り、堀割りから水を引いて流し、桜やツツジなどの花木を植え、水をたたえた池には舟を浮べた。正月は左義長[さぎちょう]、桜の春には花見、夏には涼を求めて納涼の宴、秋には鷲ヶ巣山[わしがすやま]の彼方から昇る月の観月の宴などで楽しんでいた。

 

その屋敷を伊白丸[いはくまる]という。伊はコレと訓じ、白は太陽の明と『広漢和辞典』にあるから、伊白丸とは「これ太陽のごとき明るい屋敷」という意味と解することができる。同月16日には節の振る舞いがあり、主君・直矩、長はじめ家老らが列座、祝膳に踊があった。3月16日の梅見の会では、酒宴はもとより歌会であり、長をはべらせた直矩が、

日にそいて さかふるすえのたのしみは いろより外にあまる梅かゝ 

と詠めば、

長はいろも香も いすれおとらぬ梅かへを 君かちとせの春にかさゝん 

と返す。

 

伊白丸での宴は、直矩の在村上中ではたびたびであった。しかし、松平家が姫路へ転封になり、榊原家が姫路から村上に入封すると伊白丸は跡形もなくなってしまう。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2010年5月号掲載)村上市史異聞 より

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