イラスト:石田 光和(エム・プリント)
慶長2(1597)年に成立した『瀬波郡絵図』には、北から府屋の藤懸館(ふじかかりのやかた)、中央部に村上城(村上要害とも)、南に平林城が描かれるが、鮎川氏の大葉澤城やその他の支城はまったく描かれていない。
平林城の背後にあった山城は、加護山(かごやま)古城と文字のみが記入されているし、下渡山に存在した城も下渡(げど)嶋古城の名称のみを止め、笹平の庄厳峯(しょうごんみね)に築かれた山城は、将軍嶺(みね)と記入され、かつて砦があったことをうかがわせている。
徳川幕府が成立すると、幕府は諸大名の軍事力を削減するため、居城(きょじょう)以外の城を破却せよと命ずる。大阪夏の陣で豊臣氏が滅亡した元和元(1615)年の閏6月13日、幕府年寄衆は奉書をもって諸大名に通達した。
したがって、この年まで藤懸館も平林城も存在していたと考えてもよかろう。前者は旧大川氏、後者は旧色部(いろべ)氏の城館であった。こうした現象は上・中越とも同じであったろう。
そこで越後国に残った城は、糸魚川、高田、村松、長岡、三条、新発田、村上となる。この後は三条が廃城になる。
元和元年7月に発令した幕府法度は、居城以外に新しく城を築くことを厳重に禁止し、居城といえども無断で修築を加えることを禁じた。したがって修築の場合には、幕府にその場所を明記した絵図を提出して、許可を得なければならなかった。
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2008年12月号掲載)村上市史異聞 より