イラスト:石田 光和(エム・プリント)
戦国時代の村上領主は本庄越前守繁長である。祖は源頼朝の有力御家人であった秩父季長(すえなが)。繁長の代で越後国主・上杉謙信に臣従し、上杉の最有力者となる。
繁長の内室は古志十郎景信(謙信の母の実家で、栖吉(すよし)城主=長岡市)の妹、その本庄に謙信の跡を継いだ景勝は、上杉景信の名跡を継がせ、竹に雀の紋を贈った。
同紋は米沢城主・伊達稙宗(たねむね)から越後国主・上杉定実(さだざね)に贈られ、定実から謙信に贈られていた。景勝の思惑は、本庄を上杉一門の上座に据えることにより、本庄の支配力の向上をはかり、阿賀北の抑止力にすることにあった。時あたかも新発田重家の反乱の鎮圧中である。
本庄家にとっては名誉この上ない話であるが、繁長はこれを辞退している。理由は、本庄は桓武平氏畠山の流れであるから、藤原上杉に替えることはできない。
本庄の家紋は源頼朝から拝領した57の桐の紋だ。その由緒ある紋を廃することはできない。
上杉の名跡を継ぎ、紋まで替えては先祖に対し筋目がたたぬ、つまり名誉や地位よりも筋目を大切にするというものだ。けれど景勝は引っこみがつかない。
結局、竹に雀の紋を表紋にし、桐の紋を裏紋に使用することのみで落ちついた。ほかに上杉家中で竹に雀紋を使用している家は、山浦家(信濃国の亡命大名・村上義清家)であるが、同家の紋は石榴(ざくろ)色である。
本庄家の場合は上杉家とまったく同じで黒白である。繁長が越前守の受領名を名乗るのもこのとき、天正11(1583)年7月12日である。
算盤ずくで損得勘定の人間からすれば、頑固とか愚直といおうが、血脈とか家筋を重んじるわが国の伝統からすれば当然ともいえよう。しかし、本庄繁長のような武将は地味で自己宣伝が下手だから有名になりにくい。
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2008年9月号掲載)村上市史異聞 より