イラスト:石田 光和(エム・プリント)
宝永元(1704)年、榊原家に替って村上城主になった本多吉十郎忠孝[ただたか]の転封理由は、松平・榊原とまったく同じである。吉十郎の通称を用いているのは、幼少ゆえ官職名の名乗りが認められていなかったからである。
その忠孝、村上城主たること僅か6年、12歳で病没した。むろん嗣子[しし]はない。本来であれば、ここで本多家は断絶になるはずであった。しかし、幕府は家の存続を認めた。継嗣[けいし]は分家の本多忠隆である。同家の祖・本多平八郎忠勝の徳川家康に尽した功績が多大であったからだ。ただし10万石を減じられ5万石になった。これまでの家臣はとうてい召し抱えていられない。
ではどうするか、余計な人数を解雇するしかない。家老の中根隼人[はいと]は、総侍[そうざむらい]に履歴書の提出を命じた。そこで判明したことは、新規雇用の侍が130人、切符徒士[きっぷかち=契約雇用侍]が86人、村上で召し抱えた足軽が214人、合計430。この軽き身分の侍がまず解雇されることになる。この中に何人かは江戸勤番もいたが、多くは村上国元詰めであったから、城下は浪人であふれた。この末端をクビにするリストラ事情は今も昔もまったく変っていない。
退職金は100石侍に15両で、それ以下の侍にもいくらかずつ支払われた。けれど微々たる金額だ。たちまち生活が行き詰まるから再仕官の途を探さねばならない。ところが歳の瀬の12月28日、積雪もある。そこで藩は、解雇した侍に3、4月まで滞留することを許可し、生活費を与えた。
村上の大名で江戸初期には村上家が幕府の外様大名潰しに遭い、堀氏は無嗣[むし]によって断絶し、多くの浪人を出した。しかし、そのころは各大名家とも軍事要員が必要であったから、割合再仕官も容易だった。
ところが本多家の時代となると、平和続きの世であるから有事に備える要員はほとんど必要としなくなっていた。また大名家は戦[いくさ]に備えるよりも、財政の困窮からいかに逃れるかを苦慮しなければならなくなっていた。
浪人を召し抱える経済的な余裕なぞ、どこの大名にもありはしない。かくて町には浪人がやたら目につき、治安が悪化する。当時の世間は、かれらを軽き浪人と呼んで敬遠した。もともとの身分が軽いゆえの蔑称である。浪人は身分的にも中途半端なもので、所属する社会がなく、町奉行の監察下になる。町人や農民が町役場や村役場の統轄のもとに生活していたことは、まったく別な扱いを受けていたのである。
大量の浪人を出したことは侍地の荒廃にもつながる。かつて松平家と榊原家が造成して増築した駒込町や、久保多町茅場、肴町から鍛冶町の北裏にあった足軽長屋はがら空きとなる。飯野や与力町にも空屋が多くなる。
消費者人口の激減によって、城下は不況のどん底になる。
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2010年7月号掲載)村上市史異聞 より