イラスト:石田 光和(エム・プリント)
慶応2(1866)年の正月2日は晴天だった。今年の暦*であれば2月4日立春にあたる。まさに新春と呼ぶにふさわしい天気といえる。その日の朝、中嶋源太夫は藤基神社へ詣で、それから光徳寺。ついで親戚筋の二ノ丸、三ノ丸、羽黒口、飯野の各家。そして、安泰寺へ挨拶に回る。
*2011年のこと
藤基神社
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光徳寺
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安泰寺
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3日も晴れた。関口流柔術の師範・塚本斧右衛門が挨拶にきて、江戸屋敷の道場の監理者の交替を告げて帰る。入れ替わり青山野左衛門がきて、稽古始めに門弟に酒肴を出してもよいかと問い合わせる。
それについては、中嶋のみの判断では返答できぬから、他の番頭衆にも相談して返答すると言う。時中流の宮川唯右衛門も同様の用件で訪れる。
4日も晴天だった。午前中は羽黒神社へ参拝のため忰[せがれ]の岩吉と若党の兼吉を供にして家を出る。若党は私有でなく、藩有だから、私用に使う場合は藩の許可が必要である。その人事監理は大納戸格(財産監理)の脇田重左衛門である。
西奈彌羽黒神社
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羽黒神社では神酒を頂戴して、神官 江見安芸に賀詞を述べて下山し、菩提寺の善行寺へ仏参する。
午後からはあまり良い天気なので下男の斧次に投網を持たせ、瀬波から岩ヶ崎、大月へと散歩に出かける。土手にはまったく雪はなく、まさに春の陽気である。
瀬波の潟では、家中の嶋田丹治らがウグイ捕りに興じていた。岩ヶ崎へ行くと、船小屋あたりに柴田茂左衛門や鳥居存九郎、水谷孫平治、重野兵馬、中尾専之助、牧大助が莚[むしろ]を敷き、日向ぼっこをしていた。
七種[ななくさ]も近いからと菜の花を探すけれど、なかなか見つからず、ようやく4、5本を得ることができた。大月村の善福寺の住職と安泰寺で懇意になったことから訪ねると、土産に「かたのり」をくれた。
岩ヶ崎に戻って魚でも買うべく尋ねると、船が出ないため漁はないという。そこで「雪海苔」3枚を求めたところ、1枚65文というので、あまり高いのでびっくりした。しかし、これで土産を得ることができた。
瀬波で日暮れになり、佐野銨之丞[やすのじょう]と連れになった。そのとき、銨之丞が菜の花を欲しい様子なので2本福分け*してやった。
*人から贈られた物を他の人に分け与えること
5日、小野田徳三病欠の届けがある。この日は当番であったから、熨斗目麻上下*[のしめあさかみしも](腰部に格子や筋を入れた小袖)着用で九ツ時(正午)登城、欠勤者の欠勤理由を記入して帰宅する。他の出勤者は木綿の紋付を着用していたことから、以後は木綿紋付にすることにした。
*重臣の正式礼装
7日、七種の嘉儀につき親しい人らが祝儀にくる。家に伝わるしきたりは、この日肉桂*[にっけい]入りの粥を食べることである。
*肉桂の渡来は江戸中期、健胃薬に用いる
馬術稽古始めにつき上下を着て見聞にでる。自分にも乗馬を勧められたが、脚気を理由に断り、神酒だけ頂戴して帰宅した。
これが、中嶋源太夫のまことにのどかな正月であった。武家社会が大音響をたてて崩壊する明治維新の2年前のことである。
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2011年2月号掲載)村上市史異聞 より