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むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

このコンテンツでは
過去の「昔のことせ! ー村上むかし語りー
再掲しています。

 

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著者は村上市の郷土史研究家
大場喜代司さん(故人)です。

 

石田光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。

 

2024/01/15

036 侍の正月(2)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

慶応2(1866)年の正月2日は晴天だった。今年の暦*であれば2月4日立春にあたる。まさに新春と呼ぶにふさわしい天気といえる。その日の朝、中嶋源太夫は藤基神社へ詣で、それから光徳寺。ついで親戚筋の二ノ丸、三ノ丸、羽黒口、飯野の各家。そして、安泰寺へ挨拶に回る。
*2011年のこと

藤基神社
https://www.sake3.com/spot/317

光徳寺
https://www.sake3.com/spot/2451

安泰寺
https://www.sake3.com/spot/6680

 

3日も晴れた。関口流柔術の師範・塚本斧右衛門が挨拶にきて、江戸屋敷の道場の監理者の交替を告げて帰る。入れ替わり青山野左衛門がきて、稽古始めに門弟に酒肴を出してもよいかと問い合わせる。

それについては、中嶋のみの判断では返答できぬから、他の番頭衆にも相談して返答すると言う。時中流の宮川唯右衛門も同様の用件で訪れる。

 

4日も晴天だった。午前中は羽黒神社へ参拝のため忰[せがれ]の岩吉と若党の兼吉を供にして家を出る。若党は私有でなく、藩有だから、私用に使う場合は藩の許可が必要である。その人事監理は大納戸格(財産監理)の脇田重左衛門である。

西奈彌羽黒神社
https://www.sake3.com/spot/54

 

羽黒神社では神酒を頂戴して、神官 江見安芸に賀詞を述べて下山し、菩提寺の善行寺へ仏参する。

午後からはあまり良い天気なので下男の斧次に投網を持たせ、瀬波から岩ヶ崎、大月へと散歩に出かける。土手にはまったく雪はなく、まさに春の陽気である。

瀬波の潟では、家中の嶋田丹治らがウグイ捕りに興じていた。岩ヶ崎へ行くと、船小屋あたりに柴田茂左衛門や鳥居存九郎、水谷孫平治、重野兵馬、中尾専之助、牧大助が莚[むしろ]を敷き、日向ぼっこをしていた。

七種[ななくさ]も近いからと菜の花を探すけれど、なかなか見つからず、ようやく4、5本を得ることができた。大月村の善福寺の住職と安泰寺で懇意になったことから訪ねると、土産に「かたのり」をくれた。

岩ヶ崎に戻って魚でも買うべく尋ねると、船が出ないため漁はないという。そこで「雪海苔」3枚を求めたところ、1枚65文というので、あまり高いのでびっくりした。しかし、これで土産を得ることができた。

瀬波で日暮れになり、佐野銨之丞[やすのじょう]と連れになった。そのとき、銨之丞が菜の花を欲しい様子なので2本福分け*してやった。
*人から贈られた物を他の人に分け与えること

 

5日、小野田徳三病欠の届けがある。この日は当番であったから、熨斗目麻上下*[のしめあさかみしも](腰部に格子や筋を入れた小袖)着用で九ツ時(正午)登城、欠勤者の欠勤理由を記入して帰宅する。他の出勤者は木綿の紋付を着用していたことから、以後は木綿紋付にすることにした。
*重臣の正式礼装

 

7日、七種の嘉儀につき親しい人らが祝儀にくる。家に伝わるしきたりは、この日肉桂*[にっけい]入りの粥を食べることである。
*肉桂の渡来は江戸中期、健胃薬に用いる

馬術稽古始めにつき上下を着て見聞にでる。自分にも乗馬を勧められたが、脚気を理由に断り、神酒だけ頂戴して帰宅した。

これが、中嶋源太夫のまことにのどかな正月であった。武家社会が大音響をたてて崩壊する明治維新の2年前のことである。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2011年2月号掲載)村上市史異聞 より

 

2023/12/15

035 侍の正月(1)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

今回は、侍の正月を書く。

 

人物は、村上内藤藩で番頭[ばんがしら]を務める中嶋源太夫。番頭といえば、家老の次に位置する高官である。知行は300石から230石で、人員は5人で交替しながら執務にあたる。その下が物頭[ものがしら]、大目付、奉行、大納戸、作事奉行、記録役、給人馬廻[きゅうにんうままわり]の順となる。

 

番頭の役目を一言でいえば、軍務に関わる一切である。例えば、有事における指揮命令、軍備、武術の奨励と稽古などに関することである、といえば、番頭は武術に秀でた歴戦の勇士を思い起こす、が、侍社会は世襲だから個人の能力には関係ない。先祖が番頭であれば、その子孫も番頭である。

 

中嶋の家祖は、与五郎といって寛永中期(1633)に内藤家に仕えた。番頭に就任したのは三代・金右衛門からである。近江源氏で旧姓矢葺を名乗り、もとは蒲生家(24万石の大名。寛永9(1632)年、家中騒動により領地没収され絶家となる)の家臣であった。与五郎は蒲生家では武功の侍であったと見られる。

 

源太夫の年齢は30代の前半、真面目で几帳面で達筆であるが脚気の持病がある。時代は幕末の騒乱期である。京都では、会津藩主の主導のもと尊攘浪士に弾圧が加えられ、幕府は長州藩の征討に乗り出す。薩長連合は幕府転覆の好期到来と談論風発、軍拡に熱をあげているとき。村上藩では至極のんびりした正月を迎えていた。以下、慶応2(1866)年、源太夫の松の内である。

 

まず元旦、嘉例の祝いとして屠蘇酒は年少者からで納盃は祖母、続いて雑煮餅で祝う。年頭の祝儀に五ツ時(午前8時)登城。式服は主君から拝領の下がり藤紋の麻上下を着用。

 

同役の鳥居杢左衛門と美濃部貢は病欠。出勤は岩付太郎左衛門と川上滝之助と源太夫で、着座するとその前へ6名の物頭と長柄奉行が年頭の祝儀を述べるため着座する。

 

つぎは、江戸家老・脇田蔵人[くろうど]が報せてきた若殿の元服の嘉儀を、総出仕した家来の前で披露する。ついで家老への挨拶のため家老の詰所に赴く。

 

それが済むと徒士目付がやってきて、記録簿の点検を依頼してゆく。点検者は番頭と物頭である。

 

年頭のお礼は大書院で行われ、受けるのは家老で、役職の上位から順に済ませ、礼を述べ、終ると駒の絵の屏風のうしろへ引き下がる。そのつぎには、主君の元服の祝儀を述べるため、物頭とともに家老詰所に赴くよう大目付から達しがある。

 

詰所内では、着座すると扇子をとって一同お辞儀をする。

 

すると岩付から「殿様旧臘[きゅうろう=前年12月]15日お日柄能くおん前髪とりなされ恐悦に存じたてまつりそろむね」と申し上げると、一同平伏する。

 

ついで川上が家中一同に代って祝儀を述べ、源太夫から鳥居と美濃部の病欠を述べると、扇子を差して退きさがる。などなど、まったくあくびを噛み殺すような虚礼の連続であった。退城は八ツ時(午後2時)前である。以下次回。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2010年11月号掲載)村上市史異聞 より

2021/09/15

008 七夕(2)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

ねぶたは青森や秋田で有名だが、もとは「ねむり流し」あるいは「ねぶり流し」といい、西日本や関東などでも広く行われていた行事である。

 

睡魔を流すために川に入るのだ。それが七夕の禊(みそぎ)と結びついた。『村上町年行事日記』にねぶり流しの記事が見られるのは江戸中後期(1740~)からで、子ども中心の行事であった。

 

太鼓を打ち鳴らしながら川原に出、穢(けがれ)のついた笹を川に流すというものである。獅子舞を舞うようになるのは1700年代の後半からのようだ。これを子ども大々神楽(だいだいかぐら)と呼んでいた。広めたのは伊勢内宮御師(おし)と考えられる。

 

しかし、その七夕信仰はわが国古来の祖霊を迎え、延命を祈願することから離れ、中国からもたれされた乞巧奠(きっこうでん)=星祭りである。短冊に願いごとを書いて星神に祈る。あるいは諸芸の上達を祈願する行事である。

 

そこで欠かすことができなかった食物はそうめんであった。大名の七夕の祝儀物にも使われるほどだ。また、和歌を7枚の梶の葉に書き、7筋のそうめんで束ねる、とは松平大和守が記している。

 

獅子舞の囃し言葉に「小野小町の花の色」という文句がある。これは簓摺(ささらすり)の衣装と相まって、七夕の日に京都などで行われていた華やかな衣装の小町踊りの影響であろう。「花の色も移りて小町踊」の文言が残っている。それを風流踊と呼んでいた。「ふうりゅう」とは呼ばない、「ふりゅう」である。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2008年8月号掲載)村上市史異聞 より

 

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