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むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

このコンテンツでは
過去の「昔のことせ! ー村上むかし語りー
再掲しています。

 

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著者は村上市の郷土史研究家
大場喜代司さん(故人)です。

 

石田光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。

 

2021/05/15

004 雛と端午の節供(句)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

もともと雛(ひな)は飾る人形でなく、身体についたケガレをはらってもらう形代(かたしろ)であった。その形代を作って天皇に献じ、天皇はそれを一晩そばに置いて、翌朝、3月巳(み)の日に川に流したものだ。

 

そうした風習を室町時代の中期(1450年頃)に足利将軍もならい、しだいに民間にも広まった。

 

家々で雛人形を飾るようになるのは江戸時代の初め(1600年頃)からであるが、3段や5段飾りではなく単独である。享保年間といえば、徳川将軍・吉宗の治世であるが、この将軍は倹約家で有名。その倹約政策の一つに1尺(30cm)以上の人形は作ってはならぬ、という条項がある。

 

これを山下幸内という人は一笑に付し、人形を買う人間は金持ちである。人形師はその日暮らしの人が多い。金持ちにこそ金を使わせるべきなのに、「恐れながら御器量せまく、おっつけ日本衰微(すいび)のもとにて御座候」と文句をつけた。

 

人形師は人形師で、ならば小さな人形ならばよかろうと、象牙などの材料で精巧この上ない高価で小さな人形を作るようになる。いわゆる罌粟(けし)雛の誕生だ。

 

旧暦の5月5日は薬草刈りをする日であった。ショウブやヨモギは薬草で、チマキを食べることは疫病をさけるためであった。元来この日は悪日とされていたので、5月4日の夜に女性はショウブやヨモギで葺いた小屋にこもり、食事を摂る習慣であった。

 

それが男の節句になるのは江戸時代になってからだ。城中に鎧や長刀などを飾り、白旗を立てたものだ。武者人形を飾るようになるのは江戸中期(1730頃)からである。

 

幟旗(のぼり)は、もともと小さな旗であったが、しだいに大きくなる。旗には霊力が籠るとされ、自己顕示の目的もあったから、戦陣には大小夥(おびただ)しいほどの旗を立てたものだ。

 

鯉のぼりは18世紀の中頃からで、はじめ京都・石清水八幡宮の土産物であったという。鯉は出世の象徴であるがゆえに、江戸を中心に流行した。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2008年4月号掲載)村上市史異聞 より

 

2021/04/15

003 意外に多かった馬

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

越後国の戦国時代を舞台にした『愚直の将』という拙著を出版したところ、早速質問が飛び込んできた。それは「390騎という馬の数に疑問がある」という。また、「それだけの多くの馬を放牧する牧場があったのか」という疑問であった。

 

しかし、その騎馬数の根拠は本庄家所蔵『軍役帳』(天正16(1588)年)によるもので、その中に庄内御出陣馬上としてその数が明記されている。もっとも武将1人に1頭ではなく、高級武将ともなれば3、4頭の替え馬を持つ。

 

そして、今日(こんにち)見るような柵に囲まれた牧場に放牧するのではなく、個人が厩舎で飼い、毎日馬責め*をして飼い慣らす。もちろん農耕と軍事の両目的のためである。
*馬を乗りならすこと。責め馬

 

牧場といえば、自然の原野がすべて牧場である。戦国期の村上市街地は、村上城のある山麓周辺と二之町あたりに民家と武家の一部の屋敷が存在した程度で、ほかは飯野の一部を除いてほとんど原野であった。慶長2(1597)年は豊臣政権の末期であるが、そのときの村上町家数は252軒とある。

 

長井町、上町、大町、小町、新町が成立するのは慶長3年以降で、安良町から肴町までできるのは元和4(1618)年以降、これが現在の村上市街の原型となる。

 

江戸時代になると馬は急増する。宝永元(1704)年に、それまで村上城主であった榊原式部大輔(さかきばらしきぶのたゆう)が姫路へ転封するとき、輸送用として城下集辺の各組から集められた馬は

日下組  850頭
新保組  852頭
上野組  1220頭
府屋組  140頭
黒川俣組 186頭
立島組  135頭
下海浦(しもかいふ)組 77頭

という夥(おびただ)しい数で、江戸時代に入ると農業が急速に進歩したことを窺(うかが)わせている。この馬を集めた人は、当時久保多町の年寄であり伝馬継ぎの任にあった杢左衛門で、その褒美として同人は榊原家から銀判1枚を拝領している。

 

もちろん、これらの馬の日常は農耕に従事しているが、大名の転封や幕府の役人(あるいは高級侍)の通行の際には伝馬御用を務める。それではその頃の馬の体格はというと、4尺(約120cm)を小馬、4尺5寸を中馬、5尺(約150cm)以上を大馬と呼んでいた。この背丈は、現存の在来馬である木曽馬(きそうま)や御崎馬(みさきうま)とほぼ同じである。ちなみにサラブレッド種の背丈は160~170cmである。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2008年3月号掲載)村上市史異聞 より

 

2021/03/15

002 おせち

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

年中行事の多くは15日と8日に行われる。6月15日「天王祭」、8月15日「芋名月(いもめいげつ)」、11月15日「霜月祭」、2月8日「事始め」、4月8日「卯月祭」、12月8日「納め八日」である。次は7日で、1月7日「七草」、7月7日「七夕」である。また朔日(ついたち)も重要視された日であった。

 

これらの日は月の運行に関係している。満月になる日は15日前後で、半月になる日が7日前後である。なぜ月の満ち欠けが重要であるかは、その日が満潮日で春の大潮・秋の葉月潮(はづきじお)にゆえんする。

 

すなわち、海の彼方の常世*(とこよ)から寄せ来る満潮(常世波/とこよなみ)に乗って祖神が訪れる。その神を迎えるため、人々は禊(みそぎ)をして、身についた穢(けがれ)を落とす。そうすることにより若やぎ、死者もよみがえると信じていた。
*永遠の国

 

その名残が今日(こんにち)の正月元旦(1月1日)、上巳(じょうし/3月3日)、端午(たんご/5月5日)、七夕(7月7日)、重陽(ちょうよう/9月9日)の5節である。

 

その5節を現在は「節句」と書くのが一般的であるが、元々は「節供」と書いた。節に訪れる神に供える食物の意である。それを人々は神とともに食べ、延命を祈願する。

 

ゆえにそのつど年を重ねるのではなく、若返るのであった。こうした願望や意味が忘れられて久しく、節句と書くのが当然となった。正月料理のおせちは節会(せちえ)に神に供える食物の意味であった。

 

なお、常世波は地下をくぐる水となり、どこまでも続き、正月の若水となり、よみがえりをもたらす。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2008年2月号掲載)村上市史異聞 より

 

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