イラスト:石田 光和(エム・プリント)
豊臣秀吉が全国の大名に国替えを命ずるのが慶長3(1598)年のこと。それまで越後国守は上杉景勝であったが、上杉は会津若松城主となって転封した。替わって越後国守になるのは43万3500石を拝領した堀秀治である。
その与力として新発田には6万石で溝口秀勝を入れ、村上には9万石で村上頼勝を入れた。両者の立場は与力だから、堀の付属で有事には堀の指揮下に入り、助勢することである。村上氏の領地は岩船郡全域と北・中・南蒲原郡の一部である。
城と城下に入った侍数は、春日元忠が在番したときより遥かに多い。上下合せて290名、加えること足軽以下中間小者を含めると800ないし900名にはなろう。その彼らは確実に農耕社会から切り離されて、消費生活を送ることになったから、その消費を賄う町人が必要になる。
となると、これまでの町人数では絶対数が足りない。そこで村上氏は有力町人となるべき人々を前任地の加賀国小松周辺から連れてこざるを得ない。今に残る小松屋・加賀屋の屋号の付いた小杉・加藤・北村・木戸などの家であった。
村上茶の元祖といわれる徳光屋覚左衛門は本姓を土田と名乗る。徳光は越前国(福井県)足羽[あすわ]郡にある地名だし、土田は小松にその地名がある。本国は越前国徳光、生国は加賀国小松土田であったと推測される。
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2009年7月号掲載)村上市史異聞 より