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むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

このコンテンツでは
過去の「昔のことせ! ー村上むかし語りー
再掲しています。

 

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著者は村上市の郷土史研究家
大場喜代司さん(故人)です。

 

石田光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。

 

2024/07/15

042 領主の交替と四万石領騒動(6)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

三五兵衛・市兵衛・新五右衛門の3名が駕籠訴[かごそ]を企てたことは、奉行の中山出雲守らの目からすれば一揆である。一揆は武力に訴えるもので、公儀への批判であり、謀反と見なしていたから、被疑者はもちろん、その家族までもが罪を被ることになる。三五兵衛らを入牢にした中山出雲守らは、「三五兵衛の父親と弟を召捕ってまいれ」と代官所へ下命したのである。このことも覚悟の上での駕籠訴であったが、彼らに対する拷問は苛烈を極めた。

 

当時、罪人を白状させるには、うまく誘導するものだが、少なからず拷問が用いられた。その一つは牢屋敷[ろうやしき]内の穿鑿所[せんさくじょ]で行う笞打[むちうち]と石抱[いしだき]で、それを牢問[ろうもん]と言う。それでも自白しないと拷問蔵に入れての拷問で、海老責[えびぜめ]や釣責[つるしぜめ]を行った。

 

すなわち、自白させる手段は大別して牢問と拷問があり、拷問にかける場合は殺人・放火・盗賊で、のちに関所破り・謀反が加えられていた。石抱は拷問に入らないが、大形の洗濯板のような板に座らされ、重さ13貫(約50kg)もある石を膝の上に重ねる。大体2・3枚で白状するが、5・6枚も重ねると失神する。三五兵衛の父と弟には、どのような拷問が加えられたか分からないが獄死してしまった。

 

その報せを受けた大田村の百姓らは、ただでさえ公儀へ対する不信と代官や大庄屋への反発と抵抗意識が濃厚である。油に火が着いたように激高し、大田村はもちろん、燕町・杣木村でも連日のように集会が開かれ、善後策が話し合われる。今日も今日とて、「どだいこの村が属するのは公儀だが村上藩だか分からぬ。村上藩領となれば諸経費の負担が多い。また、大庄屋が私腹を肥やすために使役される。このままではおらだのの生活が成り立たなくなる」と叫ぶように言う者がいる。すると、「まったくだ。だからおれらが村を公領にしてくれと願いに上がったんだ。それを理不尽にも縄をかけて牢屋へぶち込み、拷問で責め殺したとは何てこった」「それもろくに理由も聞がずにだぜ。幕府にご政道というものはあるのかあ。むやみに人を殺す公儀にご政道なぞあるわけがない。こうなっては年貢米を納めることは止めようぜ」「そうともそうとも。誰が納めるか年貢米なぞ」。囂囂[ごうごう]たる非難の声が上がり、その声はたちまちのうちに黒川代官所の河原清兵衛のもとに達した。このことを河原はただちに幕府に通達すると、幕府はその対策に乗り出す。

 

ときに将軍は5代綱吉が没して、家宣が6代将軍を継いだのは宝永6(1709)年5月で、その側近中の側近・間部詮房が老中格側用人の任にあった。また、その政治顧問として新井白石が登用されていた。白石は言う、「天下の無告の民は、いかに生活が苦しくとも、その状態を訴えるところがない。しかるに奉行の任にある役人は、一方的に彼らが行為を違反として、また代官所は風説を鵜呑みにして、百姓らに反逆の罪を着せた。およそ民の父母たるべき立場の者がとるべき判断ではない」。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2011年6月号掲載)村上市史異聞 より

2024/06/15

041 領主の交替と四万石領騒動(5)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

かの村村の百姓が公儀の政道に不満を持ったのは当然のことであった。一つは5代将軍・綱吉のときから、大名・旗本の所替えがあるとき、肥沃[ひよく]な土地あるいは山林河川の利用度の多いところを幕府領とし、その余りを私領にしてきた。これは百姓のみならず、その領主もまた困窮する元となった。加えて大庄屋制があった。その欠陥が現れたのが四万石領の85カ村であった。

 

その百姓の代表が58人、なかでも燕組大田村の三五兵衛と燕町の市兵衛、地蔵堂組杣木[そまき]村の新五右衛門が統領格であった。彼らが訴えたのは、幕府・勘定奉行の中山出雲守と大久保大隅守[おおすみのかみ]だった。しかし、両奉行は権力の座にすわっているだけの凡庸[ぼんよう]極まりない人物であったから、庶民の生命や生活がいかようになろうと関心がなく、提出された訴状には一顧だにすることがなかった。

 

ただ月日だけが虚しく流れ、やがて精霊を迎え、枯れた笹が寂しく風に揺れ、そして二百十日の風のざわめきも収まった。その間、かの村村の百姓らは、毎晩のように自村で鳩首会議を開き、「ご公儀の返答はまだか。このままだと結局はおれらの要望は黙殺され、やっぱり村上領になる」「それだけはご免だ。諸掛かり負担は多いし、大庄屋の専横に苦しまねばならぬ。私領ゆえの高い負担金と私に百姓を使う大庄屋に、なにゆえおれらが生命をかけねばならぬ」「そうだ、まったく理に合わぬことだ。断固として村上領は拒否すべし」と囂囂[ごうごう]たる非難の声を上げた。

 

そこで三五兵衛と市兵衛と新五右衛門の3人は、「村の窮状を救うのはおれらしかいねえ」「む、しかし当たり前の手段では公儀を動かせねえ。思いきって駕籠訴[かごそ]*といくか」。駕籠訴とは、老中ら幕府の高官が登城する途次に、その行列に訴状を投げ込む、または竹の先に挟んで差し出すことで、よほどの理由がなければ取り上げることはなかった。

 

彼らが駕籠訴の相手にしたのは老中・井上河内守だった。しかし、それが失敗に終わったときは三五兵衛らに罪が及び、軽くて入牢・重くて死罪だ。それでも三五兵衛らは、「85カ村が救われることであれば、身命を賭してもやらねばならぬ。あるいは一族に罪が及ぶとも、多くの人命には替えられぬ」と言い合って出府を決意した。悲壮な決意といってもよい。彼らに訴状を託した親や兄弟、百姓らも掌に汗を握り、決死の面持ちで見送ったものだ。

 

その行末はいかに…… 井上河内守もまた老中とは名ばかりの無能な大名だった。その無能な高官に賭けた一縷[いちる]の望みは断たれた。無惨、訴状は井上の供侍に取り上げられ、三五兵衛らは「ご老中の行列を乱すとは不逞の輩、召し捕れ」。有無も言わせず、たちどころに高手小手に搦められ、伝馬町の牢屋に護送されてしまった。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2011年5月号掲載)村上市史異聞 より

2024/05/15

040 領主の交替と四万石領騒動(4)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

幕府の辰の口評定所(寺社・勘定・町の三奉行所で、江戸城の辰の口にあったことからそう呼んだ最高裁判所である)は、「その方らの要求、つまり村上藩領から幕府領への編入替えはならぬ。これ以上、要求を続けるならば、その方ら代表を重罪に処す」と申しわたした。重罪とは、磔獄門[はりつけごくもん]か、軽くて島流しである。それを受けた関係組村の百姓は、太田村の三五兵衛をはじめとする3名を事情説明のために評定所へ出頭させる。

 

すると評定所の役人は、「問答無用、搦[からめ]とって牢にぶちこめ。それに村村でも不穏な言動をとる不逞[ふてい]な輩[やから]があれば、ひっ捕えて、罪の軽重に従い、死罪・遠島・追放を申しつけ、その者らが所有する田畑は幕府が没収する」そう命じたものだ。

 

間もなくそれらの村村から不穏な噂が聞こえてくる。新井白石の耳にも、「お上は、おれらの言い分には少しも耳を傾けず、あまつさえまったく理不尽なことをばする。これがご公儀のなさることか。これがご政道であれば、以後、おれらは代官の命には従わぬ。もちろん年貢なぞ米一粒たりとも納めねえ」と百姓らは硬化し一致団結した。とはいえ四万石領の各村すべてという訳ではない。庄屋や村役人の説得に従って忍従した村もある。

 

このとき幕府の代官所は北蒲原郡黒川にあり、代官は河原清兵衛が派遣されていた。噂は噂を呼んだ。「河原は評定所の命令を受けて首謀者58名を捕縛した。すると百姓らはますます激高。騒乱は名状しがたいものとなった」「いやさ58名を罪に落とさば、100人で出訴すべし。100人でだめなら4000人で出訴する」と言う者があれば、「いやいや、評定所へ訴えるのみならず、黒川の代官河原某[なにがし]、あの代官が悪い。あの代官がろくにことの次第を調べもせずにいるからだ。それと大庄屋らもだ。百姓の生活を踏み台にして私腹を肥やしているのだ」。するとさらには、「まだ納めていない年貢米があろう。あの米をば船積みして他国へ売り払ってしまえ。年貢の徴収ができなければ代官の落ち度となり、さらには公儀の減収となるからの」。

 

公儀の年貢米を不法売却とは前代未聞の大科[とが]ごとだ。大庄屋や庄屋は腰の抜けるほど驚いた。そして顔を蒼白にして、頬を引きつらせながら村村を回り、「年貢米を売り払うとは天下の大罪。その罪は下手人のみならず、おれらにもおよぶ。頼む、やめてくれ!」と説得にかかるが、百姓らは、「なにを言うか。そもそもこのような事態にたちいたった原因は、うぬら大庄屋にあるのだ。四の五のとごたくを並べてじゃまだてするな」と言って、一向に聞き入れようとはしないというのだ。大庄屋は茨曽根組の関根三左衛門らである。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2011年4月号掲載)村上市史異聞 より

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