イラスト:石田 光和(エム・プリント)
三五兵衛・市兵衛・新五右衛門の3名が駕籠訴[かごそ]を企てたことは、奉行の中山出雲守らの目からすれば一揆である。一揆は武力に訴えるもので、公儀への批判であり、謀反と見なしていたから、被疑者はもちろん、その家族までもが罪を被ることになる。三五兵衛らを入牢にした中山出雲守らは、「三五兵衛の父親と弟を召捕ってまいれ」と代官所へ下命したのである。このことも覚悟の上での駕籠訴であったが、彼らに対する拷問は苛烈を極めた。
当時、罪人を白状させるには、うまく誘導するものだが、少なからず拷問が用いられた。その一つは牢屋敷[ろうやしき]内の穿鑿所[せんさくじょ]で行う笞打[むちうち]と石抱[いしだき]で、それを牢問[ろうもん]と言う。それでも自白しないと拷問蔵に入れての拷問で、海老責[えびぜめ]や釣責[つるしぜめ]を行った。
すなわち、自白させる手段は大別して牢問と拷問があり、拷問にかける場合は殺人・放火・盗賊で、のちに関所破り・謀反が加えられていた。石抱は拷問に入らないが、大形の洗濯板のような板に座らされ、重さ13貫(約50kg)もある石を膝の上に重ねる。大体2・3枚で白状するが、5・6枚も重ねると失神する。三五兵衛の父と弟には、どのような拷問が加えられたか分からないが獄死してしまった。
その報せを受けた大田村の百姓らは、ただでさえ公儀へ対する不信と代官や大庄屋への反発と抵抗意識が濃厚である。油に火が着いたように激高し、大田村はもちろん、燕町・杣木村でも連日のように集会が開かれ、善後策が話し合われる。今日も今日とて、「どだいこの村が属するのは公儀だが村上藩だか分からぬ。村上藩領となれば諸経費の負担が多い。また、大庄屋が私腹を肥やすために使役される。このままではおらだのの生活が成り立たなくなる」と叫ぶように言う者がいる。すると、「まったくだ。だからおれらが村を公領にしてくれと願いに上がったんだ。それを理不尽にも縄をかけて牢屋へぶち込み、拷問で責め殺したとは何てこった」「それもろくに理由も聞がずにだぜ。幕府にご政道というものはあるのかあ。むやみに人を殺す公儀にご政道なぞあるわけがない。こうなっては年貢米を納めることは止めようぜ」「そうともそうとも。誰が納めるか年貢米なぞ」。囂囂[ごうごう]たる非難の声が上がり、その声はたちまちのうちに黒川代官所の河原清兵衛のもとに達した。このことを河原はただちに幕府に通達すると、幕府はその対策に乗り出す。
ときに将軍は5代綱吉が没して、家宣が6代将軍を継いだのは宝永6(1709)年5月で、その側近中の側近・間部詮房が老中格側用人の任にあった。また、その政治顧問として新井白石が登用されていた。白石は言う、「天下の無告の民は、いかに生活が苦しくとも、その状態を訴えるところがない。しかるに奉行の任にある役人は、一方的に彼らが行為を違反として、また代官所は風説を鵜呑みにして、百姓らに反逆の罪を着せた。およそ民の父母たるべき立場の者がとるべき判断ではない」。
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2011年6月号掲載)村上市史異聞 より