イラスト:石田 光和(エム・プリント)
正月の話はまだあるが元に戻す。高年貢や諸掛り負担に耐えかねた百姓が欠落[かけおち]することも、領主に対する一種の抵抗で一揆の一つだ。しかし、その抵抗は数人、多くても数10人単位なもので、数百人が武器や農具を持って為政者や富裕者の屋敷を襲い、破壊や略奪行為に及ぶような一揆ではない。
一揆には、軍事力の補助として起こす政治的なものと住民が生活権の確保のために起こすものがある。けれど江戸中期ともなれば軍事的な一揆は皆無で、すべてが生活上から起きたものだ。江戸時代を通じて、幕政にまで影響を及ぼした大一揆の一つが「村上藩四万石領騒動」である。政治の歪みと大庄屋の横暴に端を発したもので、その顛末は新井白石の自叙伝『折たく柴の記』[おりたくしばのき]で知ることができる。
新井白石は明暦3(1657)年に生まれ、享保10(1725)年に没した。生家は武士であるが極めて貧しく、学問を志して政治的な地位にも就いたが、やがて容れられず、再び学問の道に投じた。彼の学問を深く評価したのが六代将軍・家宣[いえのぶ]で、白石を政治顧問として迎え、政策実行の第一人者・間部詮房[まなべあきふさ]とともに幕政にあたらせたのであった。
ひとも知る間部越前守詮房は、浪人の子として生まれ、不遇のうちに育ち、学問らしい学問をしておらなかったが、頭脳明晰・剛毅にして英邁な性格で、優れた政治的判断力で問題を即決していた。その点、今どきの政治家と自認する人々は、最高学府を出てはいるが、主義主張がはっきりせず、判断力も決断力も鈍い。詮房らとは雲泥の差がある。
村上四万石領騒動が勃発したのは、間部や新井が幕政に参加する前のことである。以下は『折たく柴の記』によって、その事件を実録風に書いたものである。
まず西・南蒲原郡と三島郡を合わせた四万石領が村上領に編入されたのは、慶安2(1649)年、松平大和守直矩[なおのり]が村上領主になったときである。その組は寺泊・渡部・地蔵堂・三条・一ノ木戸・燕・茨曽根・打越・釣寄・味方の10組で、10人の大庄屋が付き、各村には小庄屋が置かれた。これがそもそも騒動の発端となる。やがて村上領は本多忠良[ただよし]が領主になると、それまでの15万石から5万石に減知され、松平輝貞[てるさだ]の代に7万2千石になったが、四万石領は依然として村上領であった。
これに不満を持ったのがその領地の百姓で、かれらの代表は出府して幕府の評定所へ「なにとぞおれらの村々をば、御料[ごりょう]*にしてくだされ」と訴える。その嘆願に対し、奉行所の返答はにべもなく『百姓の分際で公儀の施政にくちばしを入れるとは、何たる大それたこと。ましてや領地替えの嘆願とはとんでもないこと。その旨、在所へまかり帰って皆の者に伝えよ』と叱られて帰国したのであった。その話を聞いた村々の百姓は真っ赤になって怒った。激怒したといってもいい。
*幕府直轄領
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2011年3月号掲載)村上市史異聞 より