イラスト:石田 光和(エム・プリント)
越後国の戦国時代を舞台にした『愚直の将』という拙著を出版したところ、早速質問が飛び込んできた。それは「390騎という馬の数に疑問がある」という。また、「それだけの多くの馬を放牧する牧場があったのか」という疑問であった。
しかし、その騎馬数の根拠は本庄家所蔵『軍役帳』(天正16(1588)年)によるもので、その中に庄内御出陣馬上としてその数が明記されている。もっとも武将1人に1頭ではなく、高級武将ともなれば3、4頭の替え馬を持つ。
そして、今日(こんにち)見るような柵に囲まれた牧場に放牧するのではなく、個人が厩舎で飼い、毎日馬責め*をして飼い慣らす。もちろん農耕と軍事の両目的のためである。
*馬を乗りならすこと。責め馬
牧場といえば、自然の原野がすべて牧場である。戦国期の村上市街地は、村上城のある山麓周辺と二之町あたりに民家と武家の一部の屋敷が存在した程度で、ほかは飯野の一部を除いてほとんど原野であった。慶長2(1597)年は豊臣政権の末期であるが、そのときの村上町家数は252軒とある。
長井町、上町、大町、小町、新町が成立するのは慶長3年以降で、安良町から肴町までできるのは元和4(1618)年以降、これが現在の村上市街の原型となる。
江戸時代になると馬は急増する。宝永元(1704)年に、それまで村上城主であった榊原式部大輔(さかきばらしきぶのたゆう)が姫路へ転封するとき、輸送用として城下集辺の各組から集められた馬は
日下組 850頭
新保組 852頭
上野組 1220頭
府屋組 140頭
黒川俣組 186頭
立島組 135頭
下海浦(しもかいふ)組 77頭
という夥(おびただ)しい数で、江戸時代に入ると農業が急速に進歩したことを窺(うかが)わせている。この馬を集めた人は、当時久保多町の年寄であり伝馬継ぎの任にあった杢左衛門で、その褒美として同人は榊原家から銀判1枚を拝領している。
もちろん、これらの馬の日常は農耕に従事しているが、大名の転封や幕府の役人(あるいは高級侍)の通行の際には伝馬御用を務める。それではその頃の馬の体格はというと、4尺(約120cm)を小馬、4尺5寸を中馬、5尺(約150cm)以上を大馬と呼んでいた。この背丈は、現存の在来馬である木曽馬(きそうま)や御崎馬(みさきうま)とほぼ同じである。ちなみにサラブレッド種の背丈は160~170cmである。
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2008年3月号掲載)村上市史異聞 より