イラスト:石田 光和(エム・プリント)
村上羽黒神社の祭礼は、暦のころは6月7日であった。明治になり太陽暦になると7月7日になったが、季節的には変わりがない。では、なにゆえ雨期のさかりに祭りをするのか。羽黒神社の社殿が建立され、遷宮祭が行われたことに端を発する。確かにそれはそうだ。けれど、そんな単純な理由だけではあるまい。
祭神の月読命(つきよみのみこと)は「青海原の潮流を治め」る霊威を持つ、とは『日本書紀』の記すところだ。されば潮の干満を制御する月の運行に関るということになり、月の宇宙神と水霊を崇める信仰ということになる。
そのように考えると、梅雨のさなかに神を招き祭りを行うことは、月神=水神の霊力によって、水の過不足を調節して水害を防止し、豊作を祈願するためであったといえよう。
同社が農耕神であるもう一つの証拠は、合祀する倉稲命(うがのみたまのみこと/稲荷大神)と奈津比売命(なつひめのみこと/正しくは夏高津日命 なつたかつひめのみこと)であることだ。稲荷さまは説明するまでもなく、稲なりの神だ。
夏高津日の父神は羽山戸神(はやまどのかみ)で、山形県長井市白兎に葉山神社があり、大きな信仰圏を持っている。白兎は月を擬したもので、羽山=葉山は山神である。山神は春に里に降りると農耕神に変ずる。江戸時代初期の村上藩主・堀直竒(なおより)によって祀られた羽黒神社の祭礼は、水害の発生しやすい時季でなければならなかったし、作物の成長が一段と進む前でなければならなかった。
梅雨を乗りきり夏を越し、豊かな秋を迎えることを願ったのだ。いったい祭礼には人々のもっとも切実な願いがかけられる。災害・疫病・凶作などの忌み避けるべきこと、豊穣などへの期待すべきことで、それは過去も現在も変わらない。
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2008年6月号掲載)村上市史異聞 より