イラスト:石田 光和(エム・プリント)
城と道は密接な関係にある。越後国の阿賀北(あがきた)といえば、下越(かえつ)地方であることはいうまでもない。戦国時代、その阿賀北に存在した城といえば夥(おびただ)しいほどの数にのぼるが、江戸時代まで残り、城下町を形成したところは村松(むらまつ)・新発田(しばた)・村上で、いずれも道路が東西あるいは南北に通じている要衝地である。
まず村松城下を見ると、村松街道が南北に走り、北は安田から五泉(ごせん)を経て三国往還道に至る道がある。南は加茂や見附(みつけ)と栃尾(とちお)に至る道がある。
新発田城下の場合は、北の米沢往還道の支線が延び、南は大室を経て三国往還道につなぐ。あるいは五十公野(いじみの)から赤谷(あかだに)を経て、津川から会津街道に至る道がある。
村上城下は、北の大宝寺城下(現鶴岡市)に達する出羽道と、西から東へ向う米沢往還道の基点であった。さらには柳生戸を経て小国へ達する大峠越の間道もあった。
こうして見ると、村上の場合はいずれの道路も直接他国とつながっていることがわかる。村松の主要路はいずれも間接的地方道であるし、新発田は会津街道のみが直接他国との通路である。
戦国時代の道路は、物資も運ぶが他国他領を侵略するための軍用に使われた。ゆえに他国との接点に存在する地域、しかも人が居住するに適した場所にこそ城を築き、防衛しなければならなかった。
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2008年10月号掲載)村上市史異聞 より