イラスト:石田 光和(エム・プリント)
越後国での最重拠点は高田の春日山城下(現上越市)で、西からは加賀街道、南からは飯山街道と北国街道が達している。そして京都に近いため、古くは国府が置かれていた。
その次に重要性のあった場所が村上城下であった。ゆえに天下を統一した豊臣秀吉や徳川家康は、高田城に越後国守を置き、村上城には9万石の村上氏から10万石の堀氏を入れて、山形の最上氏や米沢の上杉氏を牽制させたのである。新発田(しばた)や長岡はその次に位置する。
戦国期の城は一領国に一城ではなく、主城とのつなぎの城がいくつもあった。またいくさともなれば敵の城を攻めるため、その城の近くに築く「付け城」と呼ぶ施設があった。もちろん、それらの城も交通の要衝地に設けられた。
村上の場合は、いうまでもなく村上が主城で、支城を猿沢城として、下渡嶋城や関口城、それに板屋越城などがつなぎの城となる。いずれの地も出羽道沿いにあり、その道から里道が派生する。
色部氏の拠点であった平林城は荒川の渡河点を監視し、米沢往還道の喉元を握っていた。その支城は対岸の花立に存在した。また、鮎川氏の大葉沢城が本庄氏に攻められ陥落すると、鮎川氏は笹平の庄厳峯に新城を築き、大葉沢城の奪還を企てる。
こうした小城を破却して、平林と村上と府屋の3城に限定するのは文禄(1592)年間以降になる。
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2008年11月号掲載)村上市史異聞 より