イラスト:石田 光和(エム・プリント)
元和6(1620)年2月の書状は、土木工事が始まったことを報せていた。それが同年3月28日の書状では、手ぬかりのないようにといい、山辺里口の惣堀(加賀町から庄内町裏にかけての堀)が完成したならば、海府から船で石を運び、瀬波に集めておくように。本丸(山頂)の天守や多門櫓の造作は念を入れて行うように、また、城の壁はすべて板でおおうがよろしい。したがって、多くの板が必要になるので、木挽に精を出させて作業させよと土木工事が終盤となり、大工工事が開始されようとしている様子だ。それが4月16日の書状では、本丸の工事は油断のないようにせよと、大工奉行に命ずること。天守櫓の立柱式は、そのうち帰国するから、それまで待てと述べる。
江戸での直竒は多忙で、ようやく帰国できたのは4月下旬のようである。そして城普請の様子を確かめ、立柱式を行い、その年の秋には再び江戸へ登った。
翌7年2月の書状には、城普請の留意点を指示するから、その通りに行うようにと命じている。それが同年4月17日では、よほど工事も進み、残り工事は足軽共に任せてもよろしい。役人は領内の水路や河川の堤防普請をぬかりなく監督せよと命じている。
こうした様子からうかがうと、築城開始してからおよそ3年間で完成したことになる。おそるべき短期間であるが、軍事的施設ゆえ、緩緩[ゆるゆる]した工事は許されなかったためだ。
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2009年3月号掲載)村上市史異聞 より