イラスト:石田 光和(エム・プリント)
村上頼勝の家臣団を記した『分限帳』[ぶんげんちょう]には、城の定番は9名、二の丸(二之町)47名、三の丸(三之町)85名、飯野92名、新丸25名、どの地域にも属していない者32名がある。このうち新丸とあるのが新町を指すと考えられる。
これらの侍は、最高位が家老の1万2千石で最低100石までである。その下に位置する与力や同心、足軽、中間、あるいは自分抱えの若党は員数外である。
城郭は坂上門(下渡門)から南とし、城内に8棟の櫓を建て、表裏新町と追手筋(大町裏)に堀を掘ったと江戸時代後期にまとめられた『村上城主歴代譜』に記されている。
形成された城下町は、前記の武家地のほか大町を中心にして、その北に小町、南に上町、それに続いて長井町と尻引村(現羽黒町あたり)、上町の西には細工町であったろうが、長井町は侍地であったというから、おそらく長柄[ながえ]衆(2間柄[え]の槍を持つ足軽衆)の長屋があった町で、のち長柄の「柄」が「井」の字に変化したと推察される。
細工町は、本悟寺と共に加賀国小松から移ってきた町である。本悟寺の本家寺は本蓮寺といい、小松市細工町に現存する。『本蓮寺由緒書』によれば、永禄9(1566)年に津波倉[つばくら]から小松へ移ったとある。
その村上細工町にいたのが六軒鍛冶と呼ばれ、のち鍛冶町に移転する鍛冶であった。本蓮寺が建てられると細工町に改められたと同寺の檀徒であった長谷川三吉家の系図は述べる。当時の人口や職業分布などはまったく不明である。本蓮寺が本悟寺に改めたのは寛永年間(1624~43)という。
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2009年8月号掲載)村上市史異聞 より