イラスト:石田 光和(エム・プリント)
桝形[ますがた]は、それぞれの城門には必ず付属する設備で、門の外側に付く桝形を外桝形、内側に付くそれを内桝形と呼ぶ。そのほか、城下町の出入り口や防御上の重要地点にも設けられる。形式は高い石垣や土塁で方形に囲み、入り口を喰い違いにする。そして外側には堀を巡らす。
久保多町と庄内町の境にあった桝形の規模は、一辺が約52.2mのほぼ方形であった。高さは約3.6mと推察される。これに次いで大きい桝形は肴町の西端にあったが、その寸法は残念ながら分からない。ただし、遺構として堀の一部が現存する。
水をたたえない空堀であるが、深い薬研堀[やげんぼり](V字形)で、いかにも城下の入り口を堅固にするために設けられたことがうかがえる。
このほか、羽黒町の牛沢口、羽黒町と長井町の境、片町の庚申堂に設けられていた。機能としては、侵入する敵をその中に誘い込み、門櫓の上や土塁上などから弓や鉄砲で狙い撃ちにするというものである。
そして、この内部の一隅には地鎭のために寺社を祀る。肴町の桝形前には河内神社を祀り、片町の桝形内には宝性寺が置かれた。のち寛文7(1667)年、城主 榊原式部大輔政倫(さかきばらしきぶのたゆうまさとも)のときに庚申堂が安良町から移されて祀られた。城の鬼門鎮め[きもんしずめ]のためと言い伝えられているが、実は同所は城の鬼門には当たらない。
そこから方位を見ると、ちょうど安良町と上町大町の境であった札の辻[ふだのつじ](城下の中央で掟書を掲げる場所で、米沢道や出羽道の出発点)の北東(表鬼門)にあたる。ということは、同所の宗教的施設はあくまでも村上城下町の鬼門鎮めが目的である。
これら桝形は、町人の労力奉仕によって完成されたものだから、城主 堀直竒はその労苦に報いるため、地子[じし](地税)を免除した。とはいえ、税の免除は人口増が目的であろう。
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2009年10月号掲載)村上市史異聞 より