イラスト:石田 光和(エム・プリント)
村上城下初期の姿を記録した史料は、寛永12(1635)年の『村上惣町[そうちょう]並[ならび]銘々軒付之帳[めいめいのきつけのちょう]』で、内容は(1)と(2)で紹介した。その時から70年を経た宝永2(1705)年では、いずれの町内とも軒数、世帯数とも急増している。また、加賀町や久保田(多)町も見られる。同町の成立年は明確さを欠くが、加賀町の成立は松平直矩[なおのり](15万)が姫路から転封されてきた慶安2(1649)年以後である。
それでは、どのように変貌を遂げたかを宝永2年の『村上寺社旧例記』にみると、羽黒町家数47軒、竈[かまど]数(世帯数)108軒。神社では羽黒神社、八幡宮、修験山伏の万宝院、正学院があり、寺院では常福寺、善沢寺、万福寺、長楽寺、龍皐院、妙心庵、観音寺、成就寺、天休院があった。
長井町は44軒、竈数71軒。寺院は浄国寺、行恩寺、広雲寺である。
上町は36軒、竈数32軒とある。大町は37軒、竈数31軒、寺院には十輪寺がある。
小町は47軒で竈数73軒。寺院は安善寺と法音寺である。
庄内町は74軒、竈数117軒に達している。寺院は専念寺と善龍寺であるが、修験は意伝[いでん]、養楽院、持福院、威徳院、知楽院、三明院の6院で、その統轄が意伝と称する山伏である。
加賀町は30軒、竈数80軒。修験の養福院、観宝院がある。
久保田町は53軒、竈数128軒で鋳物師屋敷が1軒。この鋳物師は、もと柏崎の大窪村にいた兵太夫(平野)をときの城主・榊原式部太輔が、寛文8(1668)年に村上城下に移住させ、同町の観音堂土居外(現 秋葉神社裏)に住まわせたものである。
片町は、堀片地内にあったものを松平直矩在城の寛文5(1665)年に現在地に強制移転させられたもので、88軒、竈数219軒に達していた。この軒数の急増ゆえ、のちに上片町と片町に分かれる。修験の智善院と観照院、真言宗の自在院、湯殿山行者の宝性寺があった。
塩町は松平直矩時代に現在の寺町地内から移ったもので、83軒、竈数198軒に急増している。寺院は地蔵院、修験は鐘学院、善明院、宝明院(観音堂)がある。
寺町は37軒、竈数73軒。寺院は浄念寺、その境内に正覚院と西福院がある。また経王寺、長法寺、妙法寺、西真寺があり、修験は大聖院と極楽院の両院である。
大工町は19軒、竈数44軒。寺院は善行寺と光済寺、湯殿山行者である。
小国町は60軒、竈数116軒。寺院は妙性寺、修験は宝積院と本妙院があった。
鍛冶町は21軒、竈数55軒。十二社神社が足軽組屋敷内にあった。
肴町は65軒、竈数140軒。寺院は最念寺、西宝院、真福寺、弥勒寺、観音寺、得願寺で、神社は川内大明神が馬喰町氏子持ちとしてあった。
細工町は47軒、竈数110軒。茶子町7軒、竈数22軒。六間町12軒、竈数23軒、寺院に本悟寺と西教寺があった。かつて新町と書いた安良町[あらまち]は42軒、竈数81軒。
城下の総家数831軒、竈数1699軒におよんでいた。もちろん商工業者の数も急増している。そのことは次に譲る。
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2010年1月号掲載)村上市史異聞 より