イラスト:石田 光和(エム・プリント)
慶安2(1649)年に村上城主となった松平直矩[なおのり]は15万石を領した。高田城主23万石の松平光長[みつなが]とは従兄弟で、親同士は徳川家康の孫である。ゆえに家格が高く、威勢がよかった。直矩の家臣数は明らかでないが、多人数におよんだことは想像できる。当然、侍屋敷が不足する。
そこで堀片の町人を現在の片町に移して、その跡地に小姓屋敷を造った。また杉原に与力町、久保多町裏や鍛冶町の北裏に足軽長屋を増築した。桜ヶ丘高校から西宝院の南側一帯の広大な空地には、徒士[かち]侍を収容するため、駒込一番町から四番町までの町を造り、150余名を入れた。この後、寛文7(1667)年に榊原政倫[さかきばらまさとも]、宝永元(1704)年に本多忠孝[ほんだただたか]と入転封がなされるが領地高は変わらなかった。
榊原家での侍数は573人、足軽・中間[ちゅうげん]合わせて1,117人で、堀氏時代より300人余の増加でこれにその家族が加わる。この急増した消費者をまかなうためには、多くの商工業者が必要になったことはいうまでもない。
町人の人口は9,223、男4,503、女4,493、僧154、行者12、山伏40、神主10であった*。町人のうちから武家奉公にあがった者は1,000余名に達した。
*数字は資料のまま
職業は多い順から列挙すると大工147人と最多で、豆腐屋65軒、穀物屋63軒、木挽[こびき]60人、桶屋53軒、八百屋42軒、打綿[うちわた]屋39軒、鍛冶屋37軒、油屋34軒、紺屋31軒、米屋29軒、質屋と屋根屋が25軒ずつ、糀屋と酒造屋が21軒ずつ、味噌醤油屋17軒、旅籠屋と桧物[ひもの]屋が16軒ずつ、萱屋根葺[かややねぶき]と畳刺[たたみさし]が15軒ずつ、塩屋14軒、塗師12軒、簀編[すあみ]屋10軒、材木屋と小間物屋と仕立物屋が8軒ずつ、出店酒[でみせさか]屋と足駄[あしだ]屋が7軒ずつ、薬屋と鞘師[さやし]と石屋と鋳懸[いかけ]屋と傘張[かさより]が5軒ずつ、素麺[そうめん]屋と研[とぎ]屋と柄巻[つかまき]屋が4軒ずつ、温飩[うどん]屋と蝋燭[ろうそうく]屋と壁塗[かべぬり]が3軒ずつ、金具屋と鍋屋と表具屋と湯屋が2軒ずつ、蒸餅[じょうへい]屋と合羽屋と呉服屋と乗物[のりもの]屋と鋳物師[いものし]と扇子[せんす]屋と石切[いしきり]屋と刻煙草[きざみたばこ]屋が1軒ずつ、このほか医師本道[ほんどう=内科]15人、針医11人、目医師1人、外科1人、馬医1人がいた。伝馬[てんま=逓送用の馬]は16頭に定められた。『宝永二年村上寺社旧例記』による。
屋根屋は木羽葺ゆえに萱屋根葺とは別で、出店酒屋は酒の小売り、鋳懸屋は鍋釜の修理、鋳物師は鐘・鍋などの鋳造、鍋屋は鍋などの小売り、石切屋は原石の切り出しで、石屋はその加工職人。
湯屋は銭湯、乗物屋は駕籠屋、壁塗は今日でいう左官である。このうち侍の生活に必要欠くべからざる職業は研屋と柄巻屋・鞘師であるが、刀鍛冶や馬具師や鎧師・弓師・鉄砲張[てっぽうはり]がいないのはなぜか。その理由は、彼ら武器製造に携わる特殊技能を持った職人の多くは、侍の身分を与えられていたからであった。
ともあれこれら職業の中で瞠目すべき人数は大工である。その背景には、侍屋敷の増築もあったが、城郭の大修理工事もあり、各地の大工が流入したためである。その話は次回にゆずる。
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2010年2月号掲載)村上市史異聞 より