イラスト:石田 光和(エム・プリント)
一般庶民の目から見れば、大名の生活は雲の上の出来事である。まして松平直矩[なおのり]は徳川将軍の親戚、その生活は華美にして風雅、和歌に蹴鞠に書に絵画は教養として身につけねばならない。
また、住居は江戸と村上の両方に持たねばならない。しかも江戸の方は上屋敷、中屋敷、下屋敷の3カ所で、その規模たるや途方もなく広い。例えば、直矩の父・直基の正室が住んでいた鳥越の中屋敷では4千坪強の広さである。それが公的な上屋敷になると7千坪ほどもあった。
そうした屋敷には江戸詰めの侍やその家族、大名の正室や側室、その身辺の世話をする女中衆などが数百名もいたから、経費のかかることおびただしい。そうした経費の出所は、いうまでもなく年貢(租税)である。
一般的に、大名が領民から徴収する年貢は収穫高の4割であるが、松平家の場合は5割を納めさせた。この高率では民衆の生活は苦しい。わけて山村など狭くやせた耕地しか持たないところでは、天候不順で不作になればたちまち年貢不納に陥ってしまう。そうした百姓のとる道は、死ぬのがいやであれば先祖伝来の土地を捨てて他国へ逃亡するしかない。それを欠落[かけおち]という。
松平家が入封して新しく検地をし直した承応3(1654)年から8年間に、笹川・板貝・脇川・碁石[ごいし]・雷[いかづち]・大毎[おおごと]・大谷沢・小俣・中継[なかつぎ]・大代・遠矢崎[とおやさき]・中津原・中根・蒲萄[ぶどう]の各村で214人もの老若男女が庄内領に欠落している。
欠落は領主に対する一種の抵抗だ。彼らが土地を捨てどこかへ逃げ去ると、当然のことだが年貢未納となる。困るのは領主側である。そこで強制連行し元の村に住まわせるがまたもや逃げる。中にはその途中、餓死する者、気違い扱いにされて牢に入れられ、あげくは殺された者もいた。
一方、こうした潰れ百姓が職を求めて集まるのが城下町である。手っ取り早い職業が武家や商家への奉公だが、それにしても職に就ける数はしれている。城下には多くの浮浪者が横行しだす。
藩の執政らがその対策に困ったことは想像に難くない。そして、考えたあげく採った方策が公共事業で、それも村上城の大改修工事であったと推察されるのである。幕府に村上城修築許可申請を提出したのが、欠落者が出た年から数えて8年目のことである。そして、幕府の許可を得て工事にかかり、三重の天守閣が完成するのが翌3年11月6日のことであった。
その天守閣は唐破風と千鳥破風を組み合わせた屋根で、いかにも貴公子大名直矩好みの優雅な天守であった。工事はそれのみならず、他の郭にもおよんだ。新たな縄張[なわばり=設計]で、石垣を築き直し、櫓や門などが建て替えられた。
山上の普請が完成すると、二の丸と三の丸の各門の石垣を築き直す。この工事にも、また多くの貧困農民が集まったものと思われる。日当や延べ人数の記録は残っていないが経済効果は大きかったに違いない。これ以降、領民の集団欠落事件は見えない。
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2010年4月号掲載)村上市史異聞 より