イラスト:石田 光和(エム・プリント)
江戸時代前期では、概して各大名とも家臣に与える知行は高かった。堀家を例にとれば、家老の知行は1万5千石から1万石、あるいは7千石である。年貢率を高くせざるを得ないわけである。松平家の場合はそれほど高い知行ではないが、領主の生活が派手で贅沢をきわめ、そのうえ藩政の不備もあり、収穫高の5割を取る。政治はすべて家老任せで、直矩[なおのり]自身は人形浄瑠璃や能、狂言、鷹狩、花木栽培、絵画、古筆収集、和歌などに夢中である。あるいは一門大名との交際で湯水のように金銭を費やす。
これが幕府老中に聞こえぬはずはない。村上から姫路へ転じたのはよかったが、その後は見せしめのため日田(大分県)、山形、白川(福島県)、姫路、前橋、川越と転々と所替えをさせられている。引越し大名と異名をとるゆえんだ。
村上を去ったのは寛文7(1667)年。替わって姫路から榊原家が同高で入ってきた。その理由というのが松平家とまったく同じである。榊原家の家臣数は具体的である。3千3百石から百石まで328名、以下5石まで245名、足軽732名、中間385名である。当時、城下の町人は9,223名いたというから侍と町人合せて1万913名になる。平成18(2006)年の旧村上城下の人口は5,641である。この未曾有の町人の人口は、松平・榊原と続いた別格大名の所産といってもよい。侍数は松平家より榊原家の方が多い。証拠は榊原家が入封したとき、侍屋敷が150~160軒不足、足軽屋敷も不足という記録が残ることによる。そのため、与力町(現杉原地内)に柳町を、駒込に四番町を、茅場(現久保多町)に門番町を建てた。ところがどうしたことか火災の頻発だ。
入封したのが寛文7(1667)年8月22日であるが、その年10月18日正午に「御城の本丸御天守ならびに御櫓、雷火に炎上」と榊原家の記録は記し、鎮火したのは酉の下刻とあるから、延々7時間も燃えていた。これで松平家が建てた天守は僅か4年しか存在せず、以後、天守はもとよりそれに付属する本丸の櫓も再建されることはなかった。
火災は城のみならず、城下にもしきりとあり、翌8年4月16日には飯野の侍屋敷92軒が焼失している。同11年3月5日には小町13軒焼失、延宝2(1674)年正月、久保多町大火。天和3(1683)年、小町から出火し8軒を焼く。そして貞享元(1684)年になると、二の丸東南の角にある中根善次郎(家老で3千180石)邸が焼失してしまった。この屋敷には櫓門が付属していたが、それも焼けてしまい、以後その櫓門は再建されなかった。
同5年2月には羽黒神社が炎上する。また元禄7(1694)年になると久保多町が大火に見舞われ、しかもこの間、天和3(1683)年2月27日には領主の榊原式部大輔政倫[さかきばらしきぶたゆうまさみち]は18歳で病没だから不幸この上なしであった。
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2010年6月号掲載)村上市史異聞 より