イラスト:石田 光和(エム・プリント)
徳川五代将軍・綱吉には子がいなかった。そこで将軍職を継いだのは、当時甲府宰相[こうふさいしょう]といわれた徳川綱豊[つなとよ](のちに改め家宣[いえのぶ])であった。父親の綱重[つなしげ]が三代将軍・家光の次男で、将軍としての血のつながりがもっとも近かったからだ。甲府宰相と呼ばれたゆえんは、甲府藩主であったためである。前将軍・綱吉は儒学に傾倒したとは既述したが、家宣の好学は綱吉を上回った。
政策に携わった学者は、新井白石を筆頭に三宅観瀾[みやけかんらん]や室鳩巣[むろきゅうそう]で、政策実行には間部越前守詮房[まなべえちぜんのかみあきふさ]があたった。ここで彼らが実行した政治の詳しくを述べるゆとりはないが、綱吉政治の最悪であった生類憐みの令の廃止、不評通貨の廃止、また武家諸法度の改訂などが挙げられる。
その政治は、のちに「正徳の治[しょうとくのじ]」と称えられるが、譜代大名と新参大名との対立も生じた。このころになると譜代大名のほとんどは世間知らずで政治の本末をわきまえない者ばかりであった。ゆえに綱吉の代に要職に就いていた大名をことごとく罷免し、替って有能な新参大名を側近にしたのである。
その代表格が間部詮房であった。詮房は家宣が甲府藩主であったときから仕えた人で、はじめは能役者で、のちに5万石の大名になった。戦国時代では武力で大名になった者は多いが、平和時で大名に出世することは、よほどの才能が必要である。性格も清廉潔白、「賄賂かって受用これなき人は間部殿一人」あるいは「決断あり温厚なる人」また「誰一人その右に出る者なし」とも絶賛された人物であった。
詮房が老中格側用人に就いたのは宝永6(1709)年で、ほとんど江戸城に詰めきりで政務にあたっていたという。ところが家宣は将軍就任後4年で病没し、七代将軍は4歳の家継[いえつぐ]がつぐ。その家継も4年後に病没すると、将軍継嗣問題が浮上する。すなわち家継で徳川宗家の血は絶えたのだから、尾張・紀伊・水戸の三家のうちで宗家を継がなければならない。そこで、紀伊の吉宗が家康ともっとも血が近く、資質に恵まれていたから八代将軍になった。とりまきも優れていたからともいう。しかし、事実は若干違うようだ。
その吉宗を推輓[すいばん]したのが間部詮房であった。理由は、尾張や水戸が継ぐことになれば、血の遠近と法を無視したことになり、禍根を残すことになる、というものであった。また、将軍継嗣は大奥の問題でもあった。家継の生母・月光院が吉宗を推薦すれば、家宣の夫人・天英院は家宣の弟・松平清武を推薦した。月光院と天英院の勢力争いである。結局は血統と法を重視した間部と月光院の勢力によって吉宗が継ぐことになった。
けれど間部は新将軍のもとでは生き残れない。譜代大名を重んじる吉宗によって老中格側用人を免職させられ、城地も高崎から村上へ移されたのである。
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2010年9月号掲載)村上市史異聞 より