イラスト:石田 光和(エム・プリント)
かの村村の百姓が公儀の政道に不満を持ったのは当然のことであった。一つは5代将軍・綱吉のときから、大名・旗本の所替えがあるとき、肥沃[ひよく]な土地あるいは山林河川の利用度の多いところを幕府領とし、その余りを私領にしてきた。これは百姓のみならず、その領主もまた困窮する元となった。加えて大庄屋制があった。その欠陥が現れたのが四万石領の85カ村であった。
その百姓の代表が58人、なかでも燕組大田村の三五兵衛と燕町の市兵衛、地蔵堂組杣木[そまき]村の新五右衛門が統領格であった。彼らが訴えたのは、幕府・勘定奉行の中山出雲守と大久保大隅守[おおすみのかみ]だった。しかし、両奉行は権力の座にすわっているだけの凡庸[ぼんよう]極まりない人物であったから、庶民の生命や生活がいかようになろうと関心がなく、提出された訴状には一顧だにすることがなかった。
ただ月日だけが虚しく流れ、やがて精霊を迎え、枯れた笹が寂しく風に揺れ、そして二百十日の風のざわめきも収まった。その間、かの村村の百姓らは、毎晩のように自村で鳩首会議を開き、「ご公儀の返答はまだか。このままだと結局はおれらの要望は黙殺され、やっぱり村上領になる」「それだけはご免だ。諸掛かり負担は多いし、大庄屋の専横に苦しまねばならぬ。私領ゆえの高い負担金と私に百姓を使う大庄屋に、なにゆえおれらが生命をかけねばならぬ」「そうだ、まったく理に合わぬことだ。断固として村上領は拒否すべし」と囂囂[ごうごう]たる非難の声を上げた。
そこで三五兵衛と市兵衛と新五右衛門の3人は、「村の窮状を救うのはおれらしかいねえ」「む、しかし当たり前の手段では公儀を動かせねえ。思いきって駕籠訴[かごそ]*といくか」。駕籠訴とは、老中ら幕府の高官が登城する途次に、その行列に訴状を投げ込む、または竹の先に挟んで差し出すことで、よほどの理由がなければ取り上げることはなかった。
彼らが駕籠訴の相手にしたのは老中・井上河内守だった。しかし、それが失敗に終わったときは三五兵衛らに罪が及び、軽くて入牢・重くて死罪だ。それでも三五兵衛らは、「85カ村が救われることであれば、身命を賭してもやらねばならぬ。あるいは一族に罪が及ぶとも、多くの人命には替えられぬ」と言い合って出府を決意した。悲壮な決意といってもよい。彼らに訴状を託した親や兄弟、百姓らも掌に汗を握り、決死の面持ちで見送ったものだ。
その行末はいかに…… 井上河内守もまた老中とは名ばかりの無能な大名だった。その無能な高官に賭けた一縷[いちる]の望みは断たれた。無惨、訴状は井上の供侍に取り上げられ、三五兵衛らは「ご老中の行列を乱すとは不逞の輩、召し捕れ」。有無も言わせず、たちどころに高手小手に搦められ、伝馬町の牢屋に護送されてしまった。
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2011年5月号掲載)村上市史異聞 より