むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

このコンテンツでは
過去の「昔のことせ! ー村上むかし語りー
再掲しています。

 

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著者は村上市の郷土史研究家
大場喜代司さん(故人)です。

 

石田光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。

 

2024/10/15

045 領主の交替と四万石領騒動(9・終)

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イラスト:石田 光和エムプリント

 

辰の口評定所の白洲で奉行らに尋問された庄屋と大庄屋は、顔も上げられず「まったくさようで。仰せの通りで」と言うのみである。このときの奉行は目付の鈴木飛騨守であった。けれど江戸時代の裁判は難しい事件になると、奉行は屏風の後ろで陰聞[かげぎ]きをしていて、尋問は留役[とめやく・書記官]がする。また、本件のような再吟味はめったになかった。ということが『旧事諮問録』[きゅうじしもんろく]に記されている。

 

判決は正徳元(1711)年10月12日、辰の口評定所で言い渡される旨が関係者に告げられる。そこで評定所へ出頭する時間は朝八ツ刻(午前2時)であるが、しばらく待たされ、門内に呼びこまれるのが暁六ツ(6時)であった。まず最初は大庄屋8人であったが、打越組大庄屋弥左衛門は病気につき7人である。次に小庄屋15人、次に百姓代表12人、ついで入牢中の百姓8人。


公儀からの出役は、正面に老中・秋元但馬守が着座。左手に寺社奉行、大目付、目付。右手は勘定奉行、町奉行、その一段下に徒士目付[かちめつけ]が着座している。そこで横田備中守から「大庄屋は公私混同も甚だしい。衆庶の手本となるべき立場にありながらなんたる不正行為、屹度[きっと]叱り置く。小庄屋は、大庄屋の不正を黙認したかどで叱りを申し付ける。百姓12人についてはお構いなし」そう告げたところで、老中以下出役は一旦退座となる。しばらくすると、三五兵衛と市兵衛と新五右衛門の3人が縄をかけられたまま連行されてくる。着座して待っていると、横田備中守と鈴木飛騨守と堀田源右衛門の3奉行の出座となる。そこで横田は「御書き付けをもって仰せ渡され候は、85カ村かりもよおし(諸所の人を促して集める)候の張本たるにより死罪に仰せつけらるべく候えども、百姓ども願い候につき、その罪をなだめ流罪を仰せつける」と言い渡した。

 

これで三五兵衛らの命は助かったわけだが、彼らが願った幕府領編入の件は却下された。しかし、大庄屋8人へは

一、年貢の外、過分の金子は割付けざること。貸金の利足を軽くすべし。
一、みだりに人夫を多く召しつかうべからず。
一、百姓に与えた普請の手当金や役金の余剰分の返金を大庄屋が着服した件については、まったくもって不当である。以後よくよく謹むこと。
一、職務を小庄屋に任せたことは職務放棄である。以後改むべきこと。
一、災害で百姓が困窮したときは領主の役人へ届け出ること。

ときつく申し渡した。三五兵衛らの頬が歓喜に緩み、面皮を剥がれた大庄屋らの肩が震えた。

 

この事件を契機に、幕府は大庄屋制に疑問を抱き、幕領の大庄屋制を廃止した。わが身の危難を顧みず公儀を相手に訴えた三五兵衛ら3人は義民と称えられた。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2011年9月号掲載)村上市史異聞 より

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