むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

このコンテンツは
『むらかみ商工会議所ニュース』で連載していた
「昔のことせ!ー村上むかし語りーを再掲です。
発行:村上商工会議所

 

著者は村上市の郷土史研究家
大場喜代司さん(故人)です。

 

石田光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。

 

2025/03/15

050 次太郎騒動(4)

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イラスト:石田 光和エムプリント

 

横道村の治助宅を襲い、米の放出を強制させた次太郎らの一揆集団が次の目標としたのは東牧[とうぼく]村であった。一体、同村の規模は家数4軒ほどでしかなかったので、黒川町百姓の請地となっていた村である。

 

時刻はすでに八ツ刻(午前2時)、延延と松明の光の波を連ね、東牧村へ向かった。ところが、誰かが先回りしてことのなりゆきを報せたためか、黒川の町役人が羽織袴を着して対応に出てきた。それも酒と飯を数人に持たせ、村端へ出迎えたものだ。そして小腰をかがめて揉み手をしながら訥弁[とつべん]で、「いかにもお前さまがたの要求は承知いだしやした。まんず、酒でも飯でも食ってくてあんし。米の放出は四百俵だばなじだねし」そう言うと、次太郎だろう「駄目だ、四百俵では。六百俵だ、六百俵出せ」否も応もない、町役人は六百俵の放出を約束させられてしまった。時に八ツ刻半であるから、先ほどから一時間しかたっていない。騎虎の勢いというか、盲蛇に怖じずの猪突というか、当たるをさいわいに次は黒川町に突進してゆく。

 

このころ、黒川領は42カ村。石高一万石を有し、領主は柳沢氏である。領内の取り締まりは、黒川町に陣屋を設けてあたっていた。立藩は享保9(1724)年、5代将軍・綱吉の側用人で権勢を振るった柳沢吉保[よしやす]の4男・経隆[つねたか]で、家臣団は約90名。しかも、領主は江戸定府だったから黒川陣屋には何程の役人もいない。

 

「ご注進ご注進、一揆勢当方に向かって侵攻中」の報せに泡を食った重役らは、足軽や小者までかき集め、「総員、臨戦態勢を敷け」と命じ、武装を整え、高張提灯をおっ立て町の入り口に陣取った。その数50名程だったとはいうが、果たしてどれほどの人数がいたか。一揆勢はしだいに増え、長蛇の列となっている。やがて、その長蛇の頭や首が、待ち構える黒川藩兵に近付くやいなや、いきなり高張提灯目掛けて棒を振るった。めらっと提灯が燃える。どよめきの声があがる。藩兵に動揺が走り、「この陣容では敵わない。陣屋へ退いて待ち構えるがよい」。

 

もとより足軽を主にした弱兵力だし、かたや数えきれない人数だ。怖じ気づくと脱兎のようになって逃げだした。替わって数名の町役人が酒飯を運びこむと、やがて陣屋からも「暴徒を宥めるには、まず飲ませて食わせるがよい。奴らには餓鬼が憑[つ]いているのだから」と言って酒と飯を届ける。そのうえ町役人ともども「願いの筋とは何だ。何なりと聞き届けてつかわす。乱暴狼藉は止せ」と穏便に諭すように言うと、次太郎はじめ衆は口々に「千五百俵を安値で払うこと。入付田米[いりつけたまい]*3カ年間休みだぁ。この要求を呑まねば、目にものを見せるがええがぁ」
*共有村に納付する米銭

唯唯諾諾と暴徒の言いなりになった藩役人は、屈辱に唇をわななかせているしかなかった。

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2012年2月号掲載)村上市史異聞 より

 

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