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むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

このコンテンツでは
過去の「昔のことせ! ー村上むかし語りー
再掲しています。

 

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著者は村上市の郷土史研究家
大場喜代司さん(故人)です。

 

石田光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。

 

2022/09/15

020 村上城下(3)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

村上頼勝の家臣団を記した『分限帳』[ぶんげんちょう]には、城の定番は9名、二の丸(二之町)47名、三の丸(三之町)85名、飯野92名、新丸25名、どの地域にも属していない者32名がある。このうち新丸とあるのが新町を指すと考えられる。

 

これらの侍は、最高位が家老の1万2千石で最低100石までである。その下に位置する与力や同心、足軽、中間、あるいは自分抱えの若党は員数外である。

 

城郭は坂上門(下渡門)から南とし、城内に8棟の櫓を建て、表裏新町と追手筋(大町裏)に堀を掘ったと江戸時代後期にまとめられた『村上城主歴代譜』に記されている。

 

形成された城下町は、前記の武家地のほか大町を中心にして、その北に小町、南に上町、それに続いて長井町と尻引村(現羽黒町あたり)、上町の西には細工町であったろうが、長井町は侍地であったというから、おそらく長柄[ながえ]衆(2間柄[え]の槍を持つ足軽衆)の長屋があった町で、のち長柄の「柄」が「井」の字に変化したと推察される。

 

細工町は、本悟寺と共に加賀国小松から移ってきた町である。本悟寺の本家寺は本蓮寺といい、小松市細工町に現存する。『本蓮寺由緒書』によれば、永禄9(1566)年に津波倉[つばくら]から小松へ移ったとある。

 

その村上細工町にいたのが六軒鍛冶と呼ばれ、のち鍛冶町に移転する鍛冶であった。本蓮寺が建てられると細工町に改められたと同寺の檀徒であった長谷川三吉家の系図は述べる。当時の人口や職業分布などはまったく不明である。本蓮寺が本悟寺に改めたのは寛永年間(1624~43)という。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2009年8月号掲載)村上市史異聞 より

 

2022/08/15

019 村上城下(2)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

豊臣秀吉が全国の大名に国替えを命ずるのが慶長3(1598)年のこと。それまで越後国守は上杉景勝であったが、上杉は会津若松城主となって転封した。替わって越後国守になるのは43万3500石を拝領した堀秀治である。

 

その与力として新発田には6万石で溝口秀勝を入れ、村上には9万石で村上頼勝を入れた。両者の立場は与力だから、堀の付属で有事には堀の指揮下に入り、助勢することである。村上氏の領地は岩船郡全域と北・中・南蒲原郡の一部である。

 

城と城下に入った侍数は、春日元忠が在番したときより遥かに多い。上下合せて290名、加えること足軽以下中間小者を含めると800ないし900名にはなろう。その彼らは確実に農耕社会から切り離されて、消費生活を送ることになったから、その消費を賄う町人が必要になる。

 

となると、これまでの町人数では絶対数が足りない。そこで村上氏は有力町人となるべき人々を前任地の加賀国小松周辺から連れてこざるを得ない。今に残る小松屋・加賀屋の屋号の付いた小杉・加藤・北村・木戸などの家であった。

 

村上茶の元祖といわれる徳光屋覚左衛門は本姓を土田と名乗る。徳光は越前国(福井県)足羽[あすわ]郡にある地名だし、土田は小松にその地名がある。本国は越前国徳光、生国は加賀国小松土田であったと推測される。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2009年7月号掲載)村上市史異聞 より

 

2022/07/15

018 村上城下(1)初期の村上町

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

村上が城下町らしい姿を整えるようになるのは、天正末(1591)年頃からと推察される。すなわち豊臣政権による刀狩令の徹底と侍の城下集住政策の推進によるものである。従来の侍は自分の知行地(支配地)に居住して、半農半武の生活をしていたものだが、兵は兵、農は農に分離して侍を城下に集住させた。

 

文禄年間(1592~96)の検地による『瀬波郡絵図』は、当時の村上城と城下の様子をよく伝えている。それによれば、村上町の家数は252軒とある。但し年貢納入者のみ。

 

城山の麓[ふもと]には、2棟の入母屋造り風の堂々とした建物が柵に囲まれてある。軍事的政庁であろう。家並みは現在の羽黒口から二之町、それに飯野村、尻引村(のち羽黒町)、中町村(のち上片町あたりか)に点在する。

 

村上城の城番は春日右衛門元忠。配下は20人の侍とその足軽や中間小者で、合わせると120人余である。その数に町家数に加えると372になる。

 

町人の職業構成は不明であるが、鋳物師や鍛冶職がすでに存在していた。鋳物師の山本又五郎が庄内領主 武藤義興の注文によって天正14(1586)年に鋳造した鰐口(仏堂の正面軒先に吊り下げた仏具の一種)が国立博物館に現存する。

 

鍛冶職の川村七郎次は、永禄(1558~69)頃に大宝寺(現鶴岡市)から移住したと伝えられている。

 

鋳造品の多くは仏具や生活用品の鍋釜などであるし、鍛造品は農具や包丁、釘、刀槍など、これまた生活に必須なものである。すなわち生活必需品を作る職人の来住が最も古いといえよう。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2009年6月号掲載)村上市史異聞 より

 

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