イラスト:石田 光和(エム・プリント)
わが国には古来神道、仏教のほかに陰陽道[おんみょうどう]がある。現在でも、家を建てるときに方位を重んずる向きがあるが、発生はこの陰陽道にあった。その教義の中で理想的な地を占めるということは、すなわち西には霊獣とされる白虎の住む道があり、北には玄武[げんぶ]の住む山があり、東には青竜の住む流水が、そして南には朱雀[すざく]のいる沼がある。これを四神相応の地という。
この条件を村上の地に当てはめると、西には肴町から瀬波町、松山を経て江戸に向かう道があり、北には下渡山、東から三面川が流れ、南には沢沼はないが、その替わりは桐木7本を植えればよいとされていたから理想的な地域であろう。
中国の古代都市はもちろんのこと、京都、奈良、江戸はじめ、各地の城下町はすべてこの思想によって建設されていた。とはいえ、まったくこの条件に当てはまらないところは、柳9本を流水に替え、桐7本を沢沼に、梅8本を道に、槐[えんじゅ]6本を山に、というように、それぞれの木を植え付ければ済む、というからかなり呪[まじな]いめいたものである。
しかし、その地形を現代風に解釈すれば、北が高く南が低いことは夏涼しく冬暖かい。東の流水は田地を潤し舟運の発達を促し、西の大道によって交易の活発が望まれるというところであろう。とまれ村上城下はこの条件下にあったことは確かである。
城を東に偏在させて、西に向って二の丸、三の丸、そして外曲輪を張り出す形式を悌郭[ていかく]式の城と呼ぶ。侍屋敷は二の丸から三の丸に上中級、その外周には下級侍、さらにその外周には町人地を設けた。城下町の特色については次に譲る。
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2009年5月号掲載)村上市史異聞 より