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むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

このコンテンツでは
過去の「昔のことせ! ー村上むかし語りー
再掲しています。

 

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著者は村上市の郷土史研究家
大場喜代司さん(故人)です。

 

石田光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。

 

2022/06/15

017 方位と村上城下

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

わが国には古来神道、仏教のほかに陰陽道[おんみょうどう]がある。現在でも、家を建てるときに方位を重んずる向きがあるが、発生はこの陰陽道にあった。その教義の中で理想的な地を占めるということは、すなわち西には霊獣とされる白虎の住む道があり、北には玄武[げんぶ]の住む山があり、東には青竜の住む流水が、そして南には朱雀[すざく]のいる沼がある。これを四神相応の地という。

 

この条件を村上の地に当てはめると、西には肴町から瀬波町、松山を経て江戸に向かう道があり、北には下渡山、東から三面川が流れ、南には沢沼はないが、その替わりは桐木7本を植えればよいとされていたから理想的な地域であろう。

 

中国の古代都市はもちろんのこと、京都、奈良、江戸はじめ、各地の城下町はすべてこの思想によって建設されていた。とはいえ、まったくこの条件に当てはまらないところは、柳9本を流水に替え、桐7本を沢沼に、梅8本を道に、槐[えんじゅ]6本を山に、というように、それぞれの木を植え付ければ済む、というからかなり呪[まじな]いめいたものである。

 

しかし、その地形を現代風に解釈すれば、北が高く南が低いことは夏涼しく冬暖かい。東の流水は田地を潤し舟運の発達を促し、西の大道によって交易の活発が望まれるというところであろう。とまれ村上城下はこの条件下にあったことは確かである。

 

城を東に偏在させて、西に向って二の丸、三の丸、そして外曲輪を張り出す形式を悌郭[ていかく]式の城と呼ぶ。侍屋敷は二の丸から三の丸に上中級、その外周には下級侍、さらにその外周には町人地を設けた。城下町の特色については次に譲る。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2009年5月号掲載)村上市史異聞 より

 

2022/05/15

016 村上城の築城(4)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

完成した村上城の外観を述べると、山麓下の居城はコの字形をした6間幅の内堀に囲まれ、土塁上には三層櫓1棟、二層櫓2棟、平櫓1棟を建てた。二の丸の堀は6間幅で4棟の門があった。三の丸の堀も6間幅であったが、大堀(広見とも)は城下最大の31間幅であった。

 

追手門(大手門)は西面の中央に、その南には飯野門を設け正面の防護施設にした。それに対して搦手[からめて](裏手)の堀は8間幅で、堀片や新町の堀は5間幅で4棟の門を備えていた。

 

総堀[そうぼり](外構[そとがまえ])は堀片の最東端から片町、庄内町を経て塩町に達し、一方、牛沢口から飯野を経て肴町に達する。総延長は直線距離にして東西2.3km、南北1.4kmに達する越後最大の規模であった。

 

ちなみに高田城は約1.4km×1.1kmであった。

 

山上の櫓は最高所に三層の天守櫓を建て、各曲輪(郭)[くるわ]にはそれぞれ櫓を設け、多聞[たもん]と呼ぶ廊下状の櫓や塀で連結する。山城の定番が寝泊まりする建物は、七曲がりを登りきった所から少し上の東面、つまり季節風の当たらない場所で、城郭の中央部に置かれた。

 

屋根は板葺であろう。当時、瓦師は畿内にはいたが、関東以北、わけて越後から東北地方には皆無であったから、運搬費などを含めると割り高となるので、多くの城は板葺にせざるを得なかった。

 

現存する新発田城は瓦葺であるが、江戸後期のものである。とまれ村上城は越後国内では最大の規模と防御力を誇るもので、嘉永7(1854)年、剣術修業のため村上藩を訪れた佐賀藩の牟田文之助は、堀丹後守の築いた城ゆえに、堅固の城であると感嘆している。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2009年4月号掲載)村上市史異聞 より

 

2022/04/15

015 村上城の築城(3)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

元和6(1620)年2月の書状は、土木工事が始まったことを報せていた。それが同年3月28日の書状では、手ぬかりのないようにといい、山辺里口の惣堀(加賀町から庄内町裏にかけての堀)が完成したならば、海府から船で石を運び、瀬波に集めておくように。本丸(山頂)の天守や多門櫓の造作は念を入れて行うように、また、城の壁はすべて板でおおうがよろしい。したがって、多くの板が必要になるので、木挽に精を出させて作業させよと土木工事が終盤となり、大工工事が開始されようとしている様子だ。それが4月16日の書状では、本丸の工事は油断のないようにせよと、大工奉行に命ずること。天守櫓の立柱式は、そのうち帰国するから、それまで待てと述べる。

 

江戸での直竒は多忙で、ようやく帰国できたのは4月下旬のようである。そして城普請の様子を確かめ、立柱式を行い、その年の秋には再び江戸へ登った。

 

翌7年2月の書状には、城普請の留意点を指示するから、その通りに行うようにと命じている。それが同年4月17日では、よほど工事も進み、残り工事は足軽共に任せてもよろしい。役人は領内の水路や河川の堤防普請をぬかりなく監督せよと命じている。

 

こうした様子からうかがうと、築城開始してからおよそ3年間で完成したことになる。おそるべき短期間であるが、軍事的施設ゆえ、緩緩[ゆるゆる]した工事は許されなかったためだ。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2009年3月号掲載)村上市史異聞 より

 

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