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むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

このコンテンツでは
過去の「昔のことせ! ー村上むかし語りー
再掲しています。

 

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著者は村上市の郷土史研究家
大場喜代司さん(故人)です。

 

石田光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。

 

2022/03/15

014 村上城の築城(2)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

慶長3(1598)年に村上城主になった村上頼勝は、城を改築したというが、どの程度のものか確[しか]としたことは分からない。史料になり得るのは、元和4(1618)年に村上城主になった堀丹後守直竒[ほりたんごのかみなおより]の手紙と城絵図である。

 

直竒は大坂夏の陣(元和元年 豊臣氏滅亡)で、敗走する真田信繁[のぶしげ]勢を追って、大坂城への2番乗りを果し、徳川家康から激賞されて将軍の脇備[わきぞなえ]となり、越後長岡8万石を賜り、同4年には村上10万石の城主となった。

 

なお、真田信繁とは幸村のことであるが、幸村という名は存在しない。

 

直竒は同五年から城下町建設や城造り、あるいは産業開発などを国家老の堀主膳[しゅぜん]の指揮下にして、自分は江戸へ上る。その直竒が主膳に宛てた手紙が72通ほど残っている。

 

築城に関するはじめは、同5年12月2日の書状で、それには材木を伐採するときは、普請奉行と大工奉行も山へ同行させよといっている。現場は岩ヶ崎山から下渡山と考えられる(村上頼勝藩有林による)。

 

ついで翌6年2月の書状には、本丸の地形図を引くことを忘れた、と述べていることからすると、城郭の設計は直竒が行っていたといえる。

 

工事は坪割普請(一定間隔を何等分かに割り、定人数に分担させる)にする。崩した土を西の麓[ふもと]へ下ろせば、喜兵太という人の屋敷の木が枯れるから羽黒口の方へ下ろすべし。

 

あるいは石垣用の石は、東の腰郭[こしくるわ]の広見(庄内町南裏)へ片付けておくべし、などと見え、城山の土木工事が開始された様子がうかがえる。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2009年2月号掲載)村上市史異聞 より

 

2022/02/15

013 村上城の築城(1)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

城跡のある臥牛山(がぎゅうさん)は、そもそもは村上山と呼んでいた。村上という地名の史料上の初出は、永正6(1509)年に成立した『霊樹山耕雲禅寺納所方田地之帳』(耕雲寺の領地を記した帳面)である。村上山という呼称が見えるのは、永禄12(1569)年2月5日の土佐林氏慶の書状である。

 

その頃の村上の地は、現在の二之町付近と飯野付近にわずかな集落があるだけで、あとは荒涼たる原野であった。慶長2(1597)年成立の『瀬波郡絵図』によれば、村上町252軒で、その西に隣接する尻引村は20軒、また飯野村は7軒と記されている。

 

むろん、その数は年貢納入者だけの数である。そうした空間の東寄り、村の上に独立した小高い山が突然そびえている。まさに村上山と呼ぶにふさわしい。その山名が土地の俗称となって、やがて正式名称に変った。(古い時代の村上の正式名称は「本庄」)

 

その村上山に城が築かれたのは、明應(1493~1501)頃と考えられる。戦国時代で石垣を築いた城は、畿内の一部は別として、東国以北の城のほとんどは石垣はない。信濃国海津城に立派な石垣があった、と書いた小説家がいるが嘘っぱちだ。

 

村上城はおよそ三段階に削平され、三の郭(くるわ、曲輪とも)、二の郭、そして最頂部を実城(みじょう)とする。各郭の要所には櫓を建てるが、屋根は茅葺か板葺である。それを柵木が囲む。塀はない。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2009年1月号掲載)村上市史異聞 より

 

2022/01/15

012 城と道(3)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

慶長2(1597)年に成立した『瀬波郡絵図』には、北から府屋の藤懸館(ふじかかりのやかた)、中央部に村上城(村上要害とも)、南に平林城が描かれるが、鮎川氏の大葉澤城やその他の支城はまったく描かれていない。

 

平林城の背後にあった山城は、加護山(かごやま)古城と文字のみが記入されているし、下渡山に存在した城も下渡(げど)嶋古城の名称のみを止め、笹平の庄厳峯(しょうごんみね)に築かれた山城は、将軍嶺(みね)と記入され、かつて砦があったことをうかがわせている。

 

徳川幕府が成立すると、幕府は諸大名の軍事力を削減するため、居城(きょじょう)以外の城を破却せよと命ずる。大阪夏の陣で豊臣氏が滅亡した元和元(1615)年の閏6月13日、幕府年寄衆は奉書をもって諸大名に通達した。

 

したがって、この年まで藤懸館も平林城も存在していたと考えてもよかろう。前者は旧大川氏、後者は旧色部(いろべ)氏の城館であった。こうした現象は上・中越とも同じであったろう。

 

そこで越後国に残った城は、糸魚川、高田、村松、長岡、三条、新発田、村上となる。この後は三条が廃城になる。

 

元和元年7月に発令した幕府法度は、居城以外に新しく城を築くことを厳重に禁止し、居城といえども無断で修築を加えることを禁じた。したがって修築の場合には、幕府にその場所を明記した絵図を提出して、許可を得なければならなかった。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2008年12月号掲載)村上市史異聞 より

 

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