イラスト:石田 光和(エム・プリント)
慶長3(1598)年に村上城主になった村上頼勝は、城を改築したというが、どの程度のものか確[しか]としたことは分からない。史料になり得るのは、元和4(1618)年に村上城主になった堀丹後守直竒[ほりたんごのかみなおより]の手紙と城絵図である。
直竒は大坂夏の陣(元和元年 豊臣氏滅亡)で、敗走する真田信繁[のぶしげ]勢を追って、大坂城への2番乗りを果し、徳川家康から激賞されて将軍の脇備[わきぞなえ]となり、越後長岡8万石を賜り、同4年には村上10万石の城主となった。
なお、真田信繁とは幸村のことであるが、幸村という名は存在しない。
直竒は同五年から城下町建設や城造り、あるいは産業開発などを国家老の堀主膳[しゅぜん]の指揮下にして、自分は江戸へ上る。その直竒が主膳に宛てた手紙が72通ほど残っている。
築城に関するはじめは、同5年12月2日の書状で、それには材木を伐採するときは、普請奉行と大工奉行も山へ同行させよといっている。現場は岩ヶ崎山から下渡山と考えられる(村上頼勝藩有林による)。
ついで翌6年2月の書状には、本丸の地形図を引くことを忘れた、と述べていることからすると、城郭の設計は直竒が行っていたといえる。
工事は坪割普請(一定間隔を何等分かに割り、定人数に分担させる)にする。崩した土を西の麓[ふもと]へ下ろせば、喜兵太という人の屋敷の木が枯れるから羽黒口の方へ下ろすべし。
あるいは石垣用の石は、東の腰郭[こしくるわ]の広見(庄内町南裏)へ片付けておくべし、などと見え、城山の土木工事が開始された様子がうかがえる。
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2009年2月号掲載)村上市史異聞 より