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むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

このコンテンツでは
過去の「昔のことせ! ー村上むかし語りー
再掲しています。

 

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著者は村上市の郷土史研究家
大場喜代司さん(故人)です。

 

石田光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。

 

2021/12/15

011 城と道(2)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

越後国での最重拠点は高田の春日山城下(現上越市)で、西からは加賀街道、南からは飯山街道と北国街道が達している。そして京都に近いため、古くは国府が置かれていた。

 

その次に重要性のあった場所が村上城下であった。ゆえに天下を統一した豊臣秀吉や徳川家康は、高田城に越後国守を置き、村上城には9万石の村上氏から10万石の堀氏を入れて、山形の最上氏や米沢の上杉氏を牽制させたのである。新発田(しばた)や長岡はその次に位置する。

 

戦国期の城は一領国に一城ではなく、主城とのつなぎの城がいくつもあった。またいくさともなれば敵の城を攻めるため、その城の近くに築く「付け城」と呼ぶ施設があった。もちろん、それらの城も交通の要衝地に設けられた。

 

村上の場合は、いうまでもなく村上が主城で、支城を猿沢城として、下渡嶋城や関口城、それに板屋越城などがつなぎの城となる。いずれの地も出羽道沿いにあり、その道から里道が派生する。

 

色部氏の拠点であった平林城は荒川の渡河点を監視し、米沢往還道の喉元を握っていた。その支城は対岸の花立に存在した。また、鮎川氏の大葉沢城が本庄氏に攻められ陥落すると、鮎川氏は笹平の庄厳峯に新城を築き、大葉沢城の奪還を企てる。

 

こうした小城を破却して、平林と村上と府屋の3城に限定するのは文禄(1592)年間以降になる。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2008年11月号掲載)村上市史異聞 より

 

2021/11/15

010 城と道(1)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

城と道は密接な関係にある。越後国の阿賀北(あがきた)といえば、下越(かえつ)地方であることはいうまでもない。戦国時代、その阿賀北に存在した城といえば夥(おびただ)しいほどの数にのぼるが、江戸時代まで残り、城下町を形成したところは村松(むらまつ)・新発田(しばた)・村上で、いずれも道路が東西あるいは南北に通じている要衝地である。

 

まず村松城下を見ると、村松街道が南北に走り、北は安田から五泉(ごせん)を経て三国往還道に至る道がある。南は加茂や見附(みつけ)と栃尾(とちお)に至る道がある。

 

新発田城下の場合は、北の米沢往還道の支線が延び、南は大室を経て三国往還道につなぐ。あるいは五十公野(いじみの)から赤谷(あかだに)を経て、津川から会津街道に至る道がある。

 

村上城下は、北の大宝寺城下(現鶴岡市)に達する出羽道と、西から東へ向う米沢往還道の基点であった。さらには柳生戸を経て小国へ達する大峠越の間道もあった。

 

こうして見ると、村上の場合はいずれの道路も直接他国とつながっていることがわかる。村松の主要路はいずれも間接的地方道であるし、新発田は会津街道のみが直接他国との通路である。

 

戦国時代の道路は、物資も運ぶが他国他領を侵略するための軍用に使われた。ゆえに他国との接点に存在する地域、しかも人が居住するに適した場所にこそ城を築き、防衛しなければならなかった。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2008年10月号掲載)村上市史異聞 より

 

2021/10/15

009 本庄家の家紋

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

戦国時代の村上領主は本庄越前守繁長である。祖は源頼朝の有力御家人であった秩父季長(すえなが)。繁長の代で越後国主・上杉謙信に臣従し、上杉の最有力者となる。

 

繁長の内室は古志十郎景信(謙信の母の実家で、栖吉(すよし)城主=長岡市)の妹、その本庄に謙信の跡を継いだ景勝は、上杉景信の名跡を継がせ、竹に雀の紋を贈った。

 

同紋は米沢城主・伊達稙宗(たねむね)から越後国主・上杉定実(さだざね)に贈られ、定実から謙信に贈られていた。景勝の思惑は、本庄を上杉一門の上座に据えることにより、本庄の支配力の向上をはかり、阿賀北の抑止力にすることにあった。時あたかも新発田重家の反乱の鎮圧中である。

 

本庄家にとっては名誉この上ない話であるが、繁長はこれを辞退している。理由は、本庄は桓武平氏畠山の流れであるから、藤原上杉に替えることはできない。

 

本庄の家紋は源頼朝から拝領した57の桐の紋だ。その由緒ある紋を廃することはできない。

 

上杉の名跡を継ぎ、紋まで替えては先祖に対し筋目がたたぬ、つまり名誉や地位よりも筋目を大切にするというものだ。けれど景勝は引っこみがつかない。

 

結局、竹に雀の紋を表紋にし、桐の紋を裏紋に使用することのみで落ちついた。ほかに上杉家中で竹に雀紋を使用している家は、山浦家(信濃国の亡命大名・村上義清家)であるが、同家の紋は石榴(ざくろ)色である。

 

本庄家の場合は上杉家とまったく同じで黒白である。繁長が越前守の受領名を名乗るのもこのとき、天正11(1583)年7月12日である。

 

算盤ずくで損得勘定の人間からすれば、頑固とか愚直といおうが、血脈とか家筋を重んじるわが国の伝統からすれば当然ともいえよう。しかし、本庄繁長のような武将は地味で自己宣伝が下手だから有名になりにくい。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2008年9月号掲載)村上市史異聞 より

 

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