HOMEおすすめ特集 > むかしの「昔のことせ!」

むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

このコンテンツは
『むらかみ商工会議所ニュース』で連載していた
「昔のことせ!ー村上むかし語りーを再掲です。
発行:村上商工会議所

 

著者は村上市の郷土史研究家
大場喜代司さん(故人)です。

 

石田光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。

 

2024/08/15

043 領主の交替と四万石領騒動(7)

%e9%a0%98%e4%b8%bb%e3%81%ae%e4%ba%a4%e6%9b%bf%e3%81%a8%e5%9b%9b%e4%b8%87%e7%9f%b3%e9%a0%98%e9%a8%92%e5%8b%957

イラスト:石田 光和エムプリント

 

風説はさらに立つ。風説とは、四万石領の百姓らはその年に収穫した米を他国の船に売り渡して、その金を軍事費に充てて幕府に弓を引く。つまり謀反を企てているというのだ。

 

そのことが新井白石の耳に入ると、白石は「それはおかしな話である。米を売り払ってしまえば食うに困る。謀反どころではない。またかの百姓らは、おのれらの村をば幕領にしてくれと願っているのじゃ。それらがなんで公儀に叛[そむ]く。叛くわけがどこにある」と言い、さらには「かの百姓らは耐えきれずに公儀へ訴えたのじゃ。その耐えに耐えてきたものは何が原因だったのか、それを糺[ただ]さねばならない。ただ互いに相怨み、相憎む心を改めねば、公平な判断はできない」と言っていたところ、それまでの奉行はすべて免職になり、新しく横田備中守・鈴木飛騨守・堀田源右衛門の3人が任ぜられた。将軍が綱吉から家宣に替わったための人事異動であるが、騒動の終息を図るための人事でもあった。それら奉行の任免権は老中にあり、将軍の決裁を受けて行うものだから、将軍の側用人・間部詮房の人事ともいえる。

 

横田ら3人を選んだ理由というのは、いかにも温和柔順[おんわじゅうじゅん]で衿哀心[こうあいしん・あわれみの心]のある人物ということであった。幕府内では当時、第一級の人格者といえよう。そこで、新任の奉行はかねてから入牢中の三五兵衛らを奉行所に召し寄せて尋問すると、「四万石領が村上さまの領地とされたのは60年前で、松平さまがご入封になられたときでござんす。」四万石領とは、三島郡[さんとうぐん]と蒲原郡[かんばらぐん]の一部を合わせたものであるが、のちの本多中務大輔忠良[ほんだ なかつかさのたいふ ただよし]のとき、2万石を公領として、2万石を村上領に編入した。その領地は、村上を離れること20里あるいは40里の遠隔地で、統治に不便な地である。そのことは奉行らも先刻承知である。

 

三五兵衛らは死を賭し、眥[まなじり]を決して「信濃川や中ノ口川、西川などの堤防が15~16里にもおよび、毎年春秋の雨どきは必ず破られ、その修理の費用また労力、それがためどれほど苦しんでいることか。それともう一つ、10人の大庄屋がいたところ、8組8人まで村上領に付けられました」そう言うと、奉行らは不審気に「その大庄屋がなんとしたと」。ここが先途と三五兵衛は声を震わせながら「これがまたひどい話で、組下の百姓を奴婢[ぬひ]のごとく召し使うし、自分勝手に役銭を賦課します。そのため、父母は凍えて飢え、兄弟妻子は離散する始末。とてもとても、暮らすもなにも、村そのものも潰れてしめえやす」そう言うではないか。彼らの態度・口ぶりからしても、まさかその言が嘘とは思われないが、さらに聞き糺してみると、三五兵衛らの言うことに誤りがないようだ。そこで奉行らは相談して「三五兵衛ら3人をば止めて、残り32人は国へ帰す。代わって大庄屋と庄屋を召喚して尋問すべし」。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2011年7月号掲載)村上市史異聞 より

2024/07/15

042 領主の交替と四万石領騒動(6)

%e9%a0%98%e4%b8%bb%e3%81%ae%e4%ba%a4%e6%9b%bf%e3%81%a8%e5%9b%9b%e4%b8%87%e7%9f%b3%e9%a0%98%e9%a8%92%e5%8b%956

イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

三五兵衛・市兵衛・新五右衛門の3名が駕籠訴[かごそ]を企てたことは、奉行の中山出雲守らの目からすれば一揆である。一揆は武力に訴えるもので、公儀への批判であり、謀反と見なしていたから、被疑者はもちろん、その家族までもが罪を被ることになる。三五兵衛らを入牢にした中山出雲守らは、「三五兵衛の父親と弟を召捕ってまいれ」と代官所へ下命したのである。このことも覚悟の上での駕籠訴であったが、彼らに対する拷問は苛烈を極めた。

 

当時、罪人を白状させるには、うまく誘導するものだが、少なからず拷問が用いられた。その一つは牢屋敷[ろうやしき]内の穿鑿所[せんさくじょ]で行う笞打[むちうち]と石抱[いしだき]で、それを牢問[ろうもん]と言う。それでも自白しないと拷問蔵に入れての拷問で、海老責[えびぜめ]や釣責[つるしぜめ]を行った。

 

すなわち、自白させる手段は大別して牢問と拷問があり、拷問にかける場合は殺人・放火・盗賊で、のちに関所破り・謀反が加えられていた。石抱は拷問に入らないが、大形の洗濯板のような板に座らされ、重さ13貫(約50kg)もある石を膝の上に重ねる。大体2・3枚で白状するが、5・6枚も重ねると失神する。三五兵衛の父と弟には、どのような拷問が加えられたか分からないが獄死してしまった。

 

その報せを受けた大田村の百姓らは、ただでさえ公儀へ対する不信と代官や大庄屋への反発と抵抗意識が濃厚である。油に火が着いたように激高し、大田村はもちろん、燕町・杣木村でも連日のように集会が開かれ、善後策が話し合われる。今日も今日とて、「どだいこの村が属するのは公儀だが村上藩だか分からぬ。村上藩領となれば諸経費の負担が多い。また、大庄屋が私腹を肥やすために使役される。このままではおらだのの生活が成り立たなくなる」と叫ぶように言う者がいる。すると、「まったくだ。だからおれらが村を公領にしてくれと願いに上がったんだ。それを理不尽にも縄をかけて牢屋へぶち込み、拷問で責め殺したとは何てこった」「それもろくに理由も聞がずにだぜ。幕府にご政道というものはあるのかあ。むやみに人を殺す公儀にご政道なぞあるわけがない。こうなっては年貢米を納めることは止めようぜ」「そうともそうとも。誰が納めるか年貢米なぞ」。囂囂[ごうごう]たる非難の声が上がり、その声はたちまちのうちに黒川代官所の河原清兵衛のもとに達した。このことを河原はただちに幕府に通達すると、幕府はその対策に乗り出す。

 

ときに将軍は5代綱吉が没して、家宣が6代将軍を継いだのは宝永6(1709)年5月で、その側近中の側近・間部詮房が老中格側用人の任にあった。また、その政治顧問として新井白石が登用されていた。白石は言う、「天下の無告の民は、いかに生活が苦しくとも、その状態を訴えるところがない。しかるに奉行の任にある役人は、一方的に彼らが行為を違反として、また代官所は風説を鵜呑みにして、百姓らに反逆の罪を着せた。およそ民の父母たるべき立場の者がとるべき判断ではない」。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2011年6月号掲載)村上市史異聞 より

2024/06/15

041 領主の交替と四万石領騒動(5)

%e9%a0%98%e4%b8%bb%e3%81%ae%e4%ba%a4%e6%9b%bf%e3%81%a8%e5%9b%9b%e4%b8%87%e7%9f%b3%e9%a0%98%e9%a8%92%e5%8b%955

イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

かの村村の百姓が公儀の政道に不満を持ったのは当然のことであった。一つは5代将軍・綱吉のときから、大名・旗本の所替えがあるとき、肥沃[ひよく]な土地あるいは山林河川の利用度の多いところを幕府領とし、その余りを私領にしてきた。これは百姓のみならず、その領主もまた困窮する元となった。加えて大庄屋制があった。その欠陥が現れたのが四万石領の85カ村であった。

 

その百姓の代表が58人、なかでも燕組大田村の三五兵衛と燕町の市兵衛、地蔵堂組杣木[そまき]村の新五右衛門が統領格であった。彼らが訴えたのは、幕府・勘定奉行の中山出雲守と大久保大隅守[おおすみのかみ]だった。しかし、両奉行は権力の座にすわっているだけの凡庸[ぼんよう]極まりない人物であったから、庶民の生命や生活がいかようになろうと関心がなく、提出された訴状には一顧だにすることがなかった。

 

ただ月日だけが虚しく流れ、やがて精霊を迎え、枯れた笹が寂しく風に揺れ、そして二百十日の風のざわめきも収まった。その間、かの村村の百姓らは、毎晩のように自村で鳩首会議を開き、「ご公儀の返答はまだか。このままだと結局はおれらの要望は黙殺され、やっぱり村上領になる」「それだけはご免だ。諸掛かり負担は多いし、大庄屋の専横に苦しまねばならぬ。私領ゆえの高い負担金と私に百姓を使う大庄屋に、なにゆえおれらが生命をかけねばならぬ」「そうだ、まったく理に合わぬことだ。断固として村上領は拒否すべし」と囂囂[ごうごう]たる非難の声を上げた。

 

そこで三五兵衛と市兵衛と新五右衛門の3人は、「村の窮状を救うのはおれらしかいねえ」「む、しかし当たり前の手段では公儀を動かせねえ。思いきって駕籠訴[かごそ]*といくか」。駕籠訴とは、老中ら幕府の高官が登城する途次に、その行列に訴状を投げ込む、または竹の先に挟んで差し出すことで、よほどの理由がなければ取り上げることはなかった。

 

彼らが駕籠訴の相手にしたのは老中・井上河内守だった。しかし、それが失敗に終わったときは三五兵衛らに罪が及び、軽くて入牢・重くて死罪だ。それでも三五兵衛らは、「85カ村が救われることであれば、身命を賭してもやらねばならぬ。あるいは一族に罪が及ぶとも、多くの人命には替えられぬ」と言い合って出府を決意した。悲壮な決意といってもよい。彼らに訴状を託した親や兄弟、百姓らも掌に汗を握り、決死の面持ちで見送ったものだ。

 

その行末はいかに…… 井上河内守もまた老中とは名ばかりの無能な大名だった。その無能な高官に賭けた一縷[いちる]の望みは断たれた。無惨、訴状は井上の供侍に取り上げられ、三五兵衛らは「ご老中の行列を乱すとは不逞の輩、召し捕れ」。有無も言わせず、たちどころに高手小手に搦められ、伝馬町の牢屋に護送されてしまった。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2011年5月号掲載)村上市史異聞 より

先頭に戻る