イラスト:石田 光和(エム・プリント)
今回は、侍の正月を書く。
人物は、村上内藤藩で番頭[ばんがしら]を務める中嶋源太夫。番頭といえば、家老の次に位置する高官である。知行は300石から230石で、人員は5人で交替しながら執務にあたる。その下が物頭[ものがしら]、大目付、奉行、大納戸、作事奉行、記録役、給人馬廻[きゅうにんうままわり]の順となる。
番頭の役目を一言でいえば、軍務に関わる一切である。例えば、有事における指揮命令、軍備、武術の奨励と稽古などに関することである、といえば、番頭は武術に秀でた歴戦の勇士を思い起こす、が、侍社会は世襲だから個人の能力には関係ない。先祖が番頭であれば、その子孫も番頭である。
中嶋の家祖は、与五郎といって寛永中期(1633)に内藤家に仕えた。番頭に就任したのは三代・金右衛門からである。近江源氏で旧姓矢葺を名乗り、もとは蒲生家(24万石の大名。寛永9(1632)年、家中騒動により領地没収され絶家となる)の家臣であった。与五郎は蒲生家では武功の侍であったと見られる。
源太夫の年齢は30代の前半、真面目で几帳面で達筆であるが脚気の持病がある。時代は幕末の騒乱期である。京都では、会津藩主の主導のもと尊攘浪士に弾圧が加えられ、幕府は長州藩の征討に乗り出す。薩長連合は幕府転覆の好期到来と談論風発、軍拡に熱をあげているとき。村上藩では至極のんびりした正月を迎えていた。以下、慶応2(1866)年、源太夫の松の内である。
まず元旦、嘉例の祝いとして屠蘇酒は年少者からで納盃は祖母、続いて雑煮餅で祝う。年頭の祝儀に五ツ時(午前8時)登城。式服は主君から拝領の下がり藤紋の麻上下を着用。
同役の鳥居杢左衛門と美濃部貢は病欠。出勤は岩付太郎左衛門と川上滝之助と源太夫で、着座するとその前へ6名の物頭と長柄奉行が年頭の祝儀を述べるため着座する。
つぎは、江戸家老・脇田蔵人[くろうど]が報せてきた若殿の元服の嘉儀を、総出仕した家来の前で披露する。ついで家老への挨拶のため家老の詰所に赴く。
それが済むと徒士目付がやってきて、記録簿の点検を依頼してゆく。点検者は番頭と物頭である。
年頭のお礼は大書院で行われ、受けるのは家老で、役職の上位から順に済ませ、礼を述べ、終ると駒の絵の屏風のうしろへ引き下がる。そのつぎには、主君の元服の祝儀を述べるため、物頭とともに家老詰所に赴くよう大目付から達しがある。
詰所内では、着座すると扇子をとって一同お辞儀をする。
すると岩付から「殿様旧臘[きゅうろう=前年12月]15日お日柄能くおん前髪とりなされ恐悦に存じたてまつりそろむね」と申し上げると、一同平伏する。
ついで川上が家中一同に代って祝儀を述べ、源太夫から鳥居と美濃部の病欠を述べると、扇子を差して退きさがる。などなど、まったくあくびを噛み殺すような虚礼の連続であった。退城は八ツ時(午後2時)前である。以下次回。
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2010年11月号掲載)村上市史異聞 より