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むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

このコンテンツでは
過去の「昔のことせ! ー村上むかし語りー
再掲しています。

 

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著者は村上市の郷土史研究家
大場喜代司さん(故人)です。

 

石田光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。

 

2023/12/15

035 侍の正月(1)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

今回は、侍の正月を書く。

 

人物は、村上内藤藩で番頭[ばんがしら]を務める中嶋源太夫。番頭といえば、家老の次に位置する高官である。知行は300石から230石で、人員は5人で交替しながら執務にあたる。その下が物頭[ものがしら]、大目付、奉行、大納戸、作事奉行、記録役、給人馬廻[きゅうにんうままわり]の順となる。

 

番頭の役目を一言でいえば、軍務に関わる一切である。例えば、有事における指揮命令、軍備、武術の奨励と稽古などに関することである、といえば、番頭は武術に秀でた歴戦の勇士を思い起こす、が、侍社会は世襲だから個人の能力には関係ない。先祖が番頭であれば、その子孫も番頭である。

 

中嶋の家祖は、与五郎といって寛永中期(1633)に内藤家に仕えた。番頭に就任したのは三代・金右衛門からである。近江源氏で旧姓矢葺を名乗り、もとは蒲生家(24万石の大名。寛永9(1632)年、家中騒動により領地没収され絶家となる)の家臣であった。与五郎は蒲生家では武功の侍であったと見られる。

 

源太夫の年齢は30代の前半、真面目で几帳面で達筆であるが脚気の持病がある。時代は幕末の騒乱期である。京都では、会津藩主の主導のもと尊攘浪士に弾圧が加えられ、幕府は長州藩の征討に乗り出す。薩長連合は幕府転覆の好期到来と談論風発、軍拡に熱をあげているとき。村上藩では至極のんびりした正月を迎えていた。以下、慶応2(1866)年、源太夫の松の内である。

 

まず元旦、嘉例の祝いとして屠蘇酒は年少者からで納盃は祖母、続いて雑煮餅で祝う。年頭の祝儀に五ツ時(午前8時)登城。式服は主君から拝領の下がり藤紋の麻上下を着用。

 

同役の鳥居杢左衛門と美濃部貢は病欠。出勤は岩付太郎左衛門と川上滝之助と源太夫で、着座するとその前へ6名の物頭と長柄奉行が年頭の祝儀を述べるため着座する。

 

つぎは、江戸家老・脇田蔵人[くろうど]が報せてきた若殿の元服の嘉儀を、総出仕した家来の前で披露する。ついで家老への挨拶のため家老の詰所に赴く。

 

それが済むと徒士目付がやってきて、記録簿の点検を依頼してゆく。点検者は番頭と物頭である。

 

年頭のお礼は大書院で行われ、受けるのは家老で、役職の上位から順に済ませ、礼を述べ、終ると駒の絵の屏風のうしろへ引き下がる。そのつぎには、主君の元服の祝儀を述べるため、物頭とともに家老詰所に赴くよう大目付から達しがある。

 

詰所内では、着座すると扇子をとって一同お辞儀をする。

 

すると岩付から「殿様旧臘[きゅうろう=前年12月]15日お日柄能くおん前髪とりなされ恐悦に存じたてまつりそろむね」と申し上げると、一同平伏する。

 

ついで川上が家中一同に代って祝儀を述べ、源太夫から鳥居と美濃部の病欠を述べると、扇子を差して退きさがる。などなど、まったくあくびを噛み殺すような虚礼の連続であった。退城は八ツ時(午後2時)前である。以下次回。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2010年11月号掲載)村上市史異聞 より

2023/11/15

034 政局に揺れる村上城下(5)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

松平輝貞在城時の村上の様子は、史料を欠くためよく分からない。ある程度伝えているのは『村上城主歴代譜』などの野史*である。
*正史=公刊の歴史書、野史=非公刊の歴史書

 

本多家は15万石から5万石に減知され、松平輝貞家のとき7万2千石に増知されたとはいえ、家臣は大幅に減少した。その該当者は中間・足軽・徒士ら下級藩士であった。そのため足軽長屋や与力町などはがら空きになり、町人から接収した土地は旧地主に返却したことは既述した。しかし、駒込町の一番丁から四番丁までと片平町や御徒士町などは受け取り人がいない。そこで松平家では売却することにして検地を始めた。正徳2(1712)年のことである。

 

土地の面積と価格は、駒込町の東方の畑地1反、西方の畑地1反が1両3分ずつ。二番丁1反が3両1分、三番丁東方が3両2分、竪町南方が2両2分であった。しかし誰も買う者はいない。そこで藩は、若狭屋九兵衛と松屋忠次郎に命じて売らせたところ、片平町1反は7両余に売れ、徒士町は4両に売れた。(堅町・片平町・徒士町は駒込町の隣地か)

 

その他の払地は、若狭屋と松屋が買ったようであるが確たる証拠はない。両者は当時、村上を代表する分限者[ぶんげんしゃ=財産家]であろうから、藩は強制的に買わせたと考えられる。それらの長屋はことごとく破却され、材木は他の家屋の修繕用にされ、平地は茶畑や田畑に変った。久保多町北裏の足軽長屋や肴町から鍛冶町北裏の足軽長屋も姿を消し、荒地となったり畑地になった。また飯野や与力町にも空地が広まっていった。

 

売却代金11両は荒廃した侍屋敷の修理代に回した。堀家入封以来91年間もの間、大名の入転封が繰り返され、家臣の屋敷は荒れるにまかせていたのだろう。城内の荒廃もひどかった。山麓居城の正面に架かる刎橋は使用不能であったし、城内の備品であった鎧は縅[おどし]糸が朽ちてぼろぼろになっていた。それを松平家も放置していたが、間部家との交替が決まった享保2(1717)年、そのまま間部家に渡すことは体裁が悪いと思ったのか、藩主・輝貞は刎橋の修繕を家臣に命じている。平和な世では城や武具などは無用と思っていたのかもしれない。

 

反面、輝貞は五代将軍・徳川綱吉への追慕の思いは強く、常憲院[じょうけんいん=綱吉]の御霊屋を羽黒口の天休院(のちの光徳寺)境内に建立している。規模は3間に4間の内殿で、大工は江戸から呼び寄せた小森谷金助。内部の装飾はこれも江戸の絵師・長谷川東林雪艚を呼び寄せて描かせた。よほど豪華な堂であったものか、1万千両もの工費であったという。「犬公方」と陰口を叩かれた将軍でも、輝貞にとっては大事な人であったのだろう。常憲院の廟は、松平家が高崎に移るときに解体して運んだという。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2010年10月号掲載)村上市史異聞 より

2023/10/15

033 政局に揺れる村上城下(4)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

徳川五代将軍・綱吉には子がいなかった。そこで将軍職を継いだのは、当時甲府宰相[こうふさいしょう]といわれた徳川綱豊[つなとよ](のちに改め家宣[いえのぶ])であった。父親の綱重[つなしげ]が三代将軍・家光の次男で、将軍としての血のつながりがもっとも近かったからだ。甲府宰相と呼ばれたゆえんは、甲府藩主であったためである。前将軍・綱吉は儒学に傾倒したとは既述したが、家宣の好学は綱吉を上回った。

 

政策に携わった学者は、新井白石を筆頭に三宅観瀾[みやけかんらん]や室鳩巣[むろきゅうそう]で、政策実行には間部越前守詮房[まなべえちぜんのかみあきふさ]があたった。ここで彼らが実行した政治の詳しくを述べるゆとりはないが、綱吉政治の最悪であった生類憐みの令の廃止、不評通貨の廃止、また武家諸法度の改訂などが挙げられる。

 

その政治は、のちに「正徳の治[しょうとくのじ]」と称えられるが、譜代大名と新参大名との対立も生じた。このころになると譜代大名のほとんどは世間知らずで政治の本末をわきまえない者ばかりであった。ゆえに綱吉の代に要職に就いていた大名をことごとく罷免し、替って有能な新参大名を側近にしたのである。

 

その代表格が間部詮房であった。詮房は家宣が甲府藩主であったときから仕えた人で、はじめは能役者で、のちに5万石の大名になった。戦国時代では武力で大名になった者は多いが、平和時で大名に出世することは、よほどの才能が必要である。性格も清廉潔白、「賄賂かって受用これなき人は間部殿一人」あるいは「決断あり温厚なる人」また「誰一人その右に出る者なし」とも絶賛された人物であった。

 

詮房が老中格側用人に就いたのは宝永6(1709)年で、ほとんど江戸城に詰めきりで政務にあたっていたという。ところが家宣は将軍就任後4年で病没し、七代将軍は4歳の家継[いえつぐ]がつぐ。その家継も4年後に病没すると、将軍継嗣問題が浮上する。すなわち家継で徳川宗家の血は絶えたのだから、尾張・紀伊・水戸の三家のうちで宗家を継がなければならない。そこで、紀伊の吉宗が家康ともっとも血が近く、資質に恵まれていたから八代将軍になった。とりまきも優れていたからともいう。しかし、事実は若干違うようだ。

 

その吉宗を推輓[すいばん]したのが間部詮房であった。理由は、尾張や水戸が継ぐことになれば、血の遠近と法を無視したことになり、禍根を残すことになる、というものであった。また、将軍継嗣は大奥の問題でもあった。家継の生母・月光院が吉宗を推薦すれば、家宣の夫人・天英院は家宣の弟・松平清武を推薦した。月光院と天英院の勢力争いである。結局は血統と法を重視した間部と月光院の勢力によって吉宗が継ぐことになった。

 

けれど間部は新将軍のもとでは生き残れない。譜代大名を重んじる吉宗によって老中格側用人を免職させられ、城地も高崎から村上へ移されたのである。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2010年9月号掲載)村上市史異聞 より

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