HOMEおすすめ特集 > むかしの「昔のことせ!」

むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

このコンテンツでは
過去の「昔のことせ! ー村上むかし語りー
再掲しています。

 

contents5103_bnr

 

 

著者は村上市の郷土史研究家
大場喜代司さん(故人)です。

 

石田光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。

 

2023/09/15

032 政局に揺れる村上城下(3)

%e6%94%bf%e5%b1%80%e3%81%ab%e6%8f%ba%e3%82%8c%e3%82%8b%e6%9d%91%e4%b8%8a%e5%9f%8e%e4%b8%8b3

イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

本多忠隆[ただたか]改め忠良[ただよし]が村上城から三河国(愛知県)刈谷城に移ったのは、宝永7(1710)年5月23日である。替って村上城には松平右京大夫輝貞[まつだいらうきょうのだいぶてるさだ]が上野国(群馬県)高崎城から移ってくる。ただし、その年月日は幕府の発令である。実際は、本多氏の刈谷入城は少し遅れて8月12日で、村上城を松平氏に渡したのは同月26日である。転入城に際し、多数の侍の移動で混雑することを避けるためであった。

 

この松平輝貞という人物は、五代将軍・徳川綱吉の側用人、柳沢吉保の補佐を務めていた。柳沢は綱吉の寵[ちょう]を一身に受け、権勢並ぶ者なしといわれた人物である。ゆえに輝貞の立身は、はじめ5千石であった知行が7万2千石までになったのである。その立身の背景には、綱吉将軍の儒学傾倒と輝貞の儒学への深い造詣があった。なにしろ将軍を自邸に招き、その前で論語を講ずるほどであったから、その学識たるやなまなかのものではない。

 

いうまでもなく将軍は綱吉であるが、執政は柳沢であり、その補佐が松平であった。かれらが行った政治は「賞罰厳明」、わけて不正に厳しく、無能・怠慢の代官には斬罪・切腹・流罪などを命じ、行政に長けた役人を重用した。

 

儒教は古代中国で孔子によって説かれた教学である。わが国の近世では、一段と儒教による影響が高まる。将軍や大名などの為政者の教養として、広く重んじられるようになったからである。はじめの儒教は宗教性の強いものであったが、江戸時代になると忠・孝・誠など礼教性が強くなり、宗教性が見えなくなる。綱吉の政治はまさに、その礼教性に基づいたものであった。

 

綱吉政治は後期になると、生類憐みの令[しょうるいあわれみのれい]などという、まさにくだらない法令が発せられる。10万匹もの犬を保護し、江戸城内では鳥・貝・エビの調理が禁止された。その違反者は斬罪になったり、八丈島へ島流しにされた例もある。ただし、その法令は人間の弱者や捨て子、旅の病人などにも及んだ。儒教で説くところの仁政の実現であろう。

 

綱吉は利口だか馬鹿だか分からない人である。そして母親・桂昌院の言うことならなんでも聞き入れる。今でいうマザコンか。しかし、本人はそれを孝の実現といっていたのかもしれない。

 

その桂昌院が深く信仰したのが、大奥の祈祷僧・隆光[りゅうこう]と亮賢[りょうけん]だった。生類憐みの令は、隆光らが綱吉が前世で犯した殺生が祟[た]たっているのだから、動物を愛護し、わけて綱吉が戌年生れのことから犬を大切にすれば子が授かると桂昌院に吹き込んだことによるという。

 

その将軍を輝貞は自邸に招くこと二、三度というから莫大な散財であった。また将軍が周易[しゅうえき=八卦学]を講じたときは黄金50両と屏風二双および酒肴を贈った。名誉と地位を得るために儒教も利用し、精いっぱいゴマをスっていた輝貞であったが、綱吉が没すると柳沢も輝貞も政権の座を失う。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2010年8月号掲載)村上市史異聞 より

2023/08/15

031 政局に揺れる村上城下(2)

%e6%94%bf%e5%b1%80%e3%81%ab%e6%8f%ba%e3%82%8c%e3%82%8b%e6%9d%91%e4%b8%8a%e5%9f%8e%e4%b8%8b2

イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

宝永元(1704)年、榊原家に替って村上城主になった本多吉十郎忠孝[ただたか]の転封理由は、松平・榊原とまったく同じである。吉十郎の通称を用いているのは、幼少ゆえ官職名の名乗りが認められていなかったからである。

 

その忠孝、村上城主たること僅か6年、12歳で病没した。むろん嗣子[しし]はない。本来であれば、ここで本多家は断絶になるはずであった。しかし、幕府は家の存続を認めた。継嗣[けいし]は分家の本多忠隆である。同家の祖・本多平八郎忠勝の徳川家康に尽した功績が多大であったからだ。ただし10万石を減じられ5万石になった。これまでの家臣はとうてい召し抱えていられない。

 

ではどうするか、余計な人数を解雇するしかない。家老の中根隼人[はいと]は、総侍[そうざむらい]に履歴書の提出を命じた。そこで判明したことは、新規雇用の侍が130人、切符徒士[きっぷかち=契約雇用侍]が86人、村上で召し抱えた足軽が214人、合計430。この軽き身分の侍がまず解雇されることになる。この中に何人かは江戸勤番もいたが、多くは村上国元詰めであったから、城下は浪人であふれた。この末端をクビにするリストラ事情は今も昔もまったく変っていない。

 

退職金は100石侍に15両で、それ以下の侍にもいくらかずつ支払われた。けれど微々たる金額だ。たちまち生活が行き詰まるから再仕官の途を探さねばならない。ところが歳の瀬の12月28日、積雪もある。そこで藩は、解雇した侍に3、4月まで滞留することを許可し、生活費を与えた。

 

村上の大名で江戸初期には村上家が幕府の外様大名潰しに遭い、堀氏は無嗣[むし]によって断絶し、多くの浪人を出した。しかし、そのころは各大名家とも軍事要員が必要であったから、割合再仕官も容易だった。

 

ところが本多家の時代となると、平和続きの世であるから有事に備える要員はほとんど必要としなくなっていた。また大名家は戦[いくさ]に備えるよりも、財政の困窮からいかに逃れるかを苦慮しなければならなくなっていた。

 

浪人を召し抱える経済的な余裕なぞ、どこの大名にもありはしない。かくて町には浪人がやたら目につき、治安が悪化する。当時の世間は、かれらを軽き浪人と呼んで敬遠した。もともとの身分が軽いゆえの蔑称である。浪人は身分的にも中途半端なもので、所属する社会がなく、町奉行の監察下になる。町人や農民が町役場や村役場の統轄のもとに生活していたことは、まったく別な扱いを受けていたのである。

 

大量の浪人を出したことは侍地の荒廃にもつながる。かつて松平家と榊原家が造成して増築した駒込町や、久保多町茅場、肴町から鍛冶町の北裏にあった足軽長屋はがら空きとなる。飯野や与力町にも空屋が多くなる。

 

消費者人口の激減によって、城下は不況のどん底になる。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2010年7月号掲載)村上市史異聞 より

2023/07/15

030 政局に揺れる村上城下(1)

%e6%94%bf%e5%b1%80%e3%81%ab%e6%8f%ba%e3%82%8c%e3%82%8b%e6%9d%91%e4%b8%8a%e5%9f%8e%e4%b8%8b1

イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

江戸時代前期では、概して各大名とも家臣に与える知行は高かった。堀家を例にとれば、家老の知行は1万5千石から1万石、あるいは7千石である。年貢率を高くせざるを得ないわけである。松平家の場合はそれほど高い知行ではないが、領主の生活が派手で贅沢をきわめ、そのうえ藩政の不備もあり、収穫高の5割を取る。政治はすべて家老任せで、直矩[なおのり]自身は人形浄瑠璃や能、狂言、鷹狩、花木栽培、絵画、古筆収集、和歌などに夢中である。あるいは一門大名との交際で湯水のように金銭を費やす。

 

これが幕府老中に聞こえぬはずはない。村上から姫路へ転じたのはよかったが、その後は見せしめのため日田(大分県)、山形、白川(福島県)、姫路、前橋、川越と転々と所替えをさせられている。引越し大名と異名をとるゆえんだ。

 

村上を去ったのは寛文7(1667)年。替わって姫路から榊原家が同高で入ってきた。その理由というのが松平家とまったく同じである。榊原家の家臣数は具体的である。3千3百石から百石まで328名、以下5石まで245名、足軽732名、中間385名である。当時、城下の町人は9,223名いたというから侍と町人合せて1万913名になる。平成18(2006)年の旧村上城下の人口は5,641である。この未曾有の町人の人口は、松平・榊原と続いた別格大名の所産といってもよい。侍数は松平家より榊原家の方が多い。証拠は榊原家が入封したとき、侍屋敷が150~160軒不足、足軽屋敷も不足という記録が残ることによる。そのため、与力町(現杉原地内)に柳町を、駒込に四番町を、茅場(現久保多町)に門番町を建てた。ところがどうしたことか火災の頻発だ。

 

入封したのが寛文7(1667)年8月22日であるが、その年10月18日正午に「御城の本丸御天守ならびに御櫓、雷火に炎上」と榊原家の記録は記し、鎮火したのは酉の下刻とあるから、延々7時間も燃えていた。これで松平家が建てた天守は僅か4年しか存在せず、以後、天守はもとよりそれに付属する本丸の櫓も再建されることはなかった。

 

火災は城のみならず、城下にもしきりとあり、翌8年4月16日には飯野の侍屋敷92軒が焼失している。同11年3月5日には小町13軒焼失、延宝2(1674)年正月、久保多町大火。天和3(1683)年、小町から出火し8軒を焼く。そして貞享元(1684)年になると、二の丸東南の角にある中根善次郎(家老で3千180石)邸が焼失してしまった。この屋敷には櫓門が付属していたが、それも焼けてしまい、以後その櫓門は再建されなかった。

 

同5年2月には羽黒神社が炎上する。また元禄7(1694)年になると久保多町が大火に見舞われ、しかもこの間、天和3(1683)年2月27日には領主の榊原式部大輔政倫[さかきばらしきぶたゆうまさみち]は18歳で病没だから不幸この上なしであった。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2010年6月号掲載)村上市史異聞 より

先頭に戻る