イラスト:石田 光和(エム・プリント)
松平直矩[なおのり]の正室は、出雲国(島根県)松江城主18万6千石の松平直政[なおまさ]の娘お駒である。直政は直矩の伯父であるから、直矩と駒はいとこである。
当時の結婚は、本人同士より家格が重視された。駒の輿入れを望んだのは直矩の家老らであった。これに対し、駒の父・直政は反対だった。駒が病弱だったからだ。が、ついにこの結婚は実現する。その花嫁行列たるや大名行列と変りなく、しかも52頭もの供馬[ともうま]まで伴っている。正室を娶[め]とったものの、はたしてお駒は子を産むことができようか気遣われるところだ。
そこで、家老らは直矩に側室を持つことを勧める。相手は東園大納言[ひがしぞのだいなごん]の娘お長[ちょう]だ。武家が公家と深い関係になることは、武家の貴種性を高め、かつその立場を引き上げることになる。かたや家臣や領民に対しては、権威を強めることになるので武家が求めた官位への願望の一種である。ただし、公家と縁組する場合は幕府の許可を得る必要があった。ゆえに松平家では長を召使という名目で、それも村上に迎え入れた。ときに長15歳。
駒は周囲の気遣いが適中、流産して自分も死んでしまう。長の村上入りは寛文3(1663)年9月27日のこと。
その前、長を迎える話が整うと、直矩は長のために別邸を建てる計画を立てた。場所は城山麓の東に位置し、最も早く朝日が当たるところだ。建築物は同年6月には完成している。なかには常盤屋や藤の茶屋と称する数奇屋(茶室風に造った建物)もあり、これまで村上には見られなかった上方風のあか抜けした家屋であった。
作庭にも意を注ぎ、珍奇な石を配し、泉水を掘り滝を造り、堀割りから水を引いて流し、桜やツツジなどの花木を植え、水をたたえた池には舟を浮べた。正月は左義長[さぎちょう]、桜の春には花見、夏には涼を求めて納涼の宴、秋には鷲ヶ巣山[わしがすやま]の彼方から昇る月の観月の宴などで楽しんでいた。
その屋敷を伊白丸[いはくまる]という。伊はコレと訓じ、白は太陽の明と『広漢和辞典』にあるから、伊白丸とは「これ太陽のごとき明るい屋敷」という意味と解することができる。同月16日には節の振る舞いがあり、主君・直矩、長はじめ家老らが列座、祝膳に踊があった。3月16日の梅見の会では、酒宴はもとより歌会であり、長をはべらせた直矩が、
日にそいて さかふるすえのたのしみは いろより外にあまる梅かゝ
と詠めば、
長はいろも香も いすれおとらぬ梅かへを 君かちとせの春にかさゝん
と返す。
伊白丸での宴は、直矩の在村上中ではたびたびであった。しかし、松平家が姫路へ転封になり、榊原家が姫路から村上に入封すると伊白丸は跡形もなくなってしまう。
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2010年5月号掲載)村上市史異聞 より