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むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

このコンテンツでは
過去の「昔のことせ! ー村上むかし語りー
再掲しています。

 

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著者は村上市の郷土史研究家
大場喜代司さん(故人)です。

 

石田光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。

 

2023/06/15

029 伊白丸という屋敷

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

松平直矩[なおのり]の正室は、出雲国(島根県)松江城主18万6千石の松平直政[なおまさ]の娘お駒である。直政は直矩の伯父であるから、直矩と駒はいとこである。

 

当時の結婚は、本人同士より家格が重視された。駒の輿入れを望んだのは直矩の家老らであった。これに対し、駒の父・直政は反対だった。駒が病弱だったからだ。が、ついにこの結婚は実現する。その花嫁行列たるや大名行列と変りなく、しかも52頭もの供馬[ともうま]まで伴っている。正室を娶[め]とったものの、はたしてお駒は子を産むことができようか気遣われるところだ。

 

そこで、家老らは直矩に側室を持つことを勧める。相手は東園大納言[ひがしぞのだいなごん]の娘お長[ちょう]だ。武家が公家と深い関係になることは、武家の貴種性を高め、かつその立場を引き上げることになる。かたや家臣や領民に対しては、権威を強めることになるので武家が求めた官位への願望の一種である。ただし、公家と縁組する場合は幕府の許可を得る必要があった。ゆえに松平家では長を召使という名目で、それも村上に迎え入れた。ときに長15歳。

 

駒は周囲の気遣いが適中、流産して自分も死んでしまう。長の村上入りは寛文3(1663)年9月27日のこと。

 

その前、長を迎える話が整うと、直矩は長のために別邸を建てる計画を立てた。場所は城山麓の東に位置し、最も早く朝日が当たるところだ。建築物は同年6月には完成している。なかには常盤屋や藤の茶屋と称する数奇屋(茶室風に造った建物)もあり、これまで村上には見られなかった上方風のあか抜けした家屋であった。

 

作庭にも意を注ぎ、珍奇な石を配し、泉水を掘り滝を造り、堀割りから水を引いて流し、桜やツツジなどの花木を植え、水をたたえた池には舟を浮べた。正月は左義長[さぎちょう]、桜の春には花見、夏には涼を求めて納涼の宴、秋には鷲ヶ巣山[わしがすやま]の彼方から昇る月の観月の宴などで楽しんでいた。

 

その屋敷を伊白丸[いはくまる]という。伊はコレと訓じ、白は太陽の明と『広漢和辞典』にあるから、伊白丸とは「これ太陽のごとき明るい屋敷」という意味と解することができる。同月16日には節の振る舞いがあり、主君・直矩、長はじめ家老らが列座、祝膳に踊があった。3月16日の梅見の会では、酒宴はもとより歌会であり、長をはべらせた直矩が、

日にそいて さかふるすえのたのしみは いろより外にあまる梅かゝ 

と詠めば、

長はいろも香も いすれおとらぬ梅かへを 君かちとせの春にかさゝん 

と返す。

 

伊白丸での宴は、直矩の在村上中ではたびたびであった。しかし、松平家が姫路へ転封になり、榊原家が姫路から村上に入封すると伊白丸は跡形もなくなってしまう。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2010年5月号掲載)村上市史異聞 より

2023/05/15

028 村上城下町の発展(6)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

一般庶民の目から見れば、大名の生活は雲の上の出来事である。まして松平直矩[なおのり]は徳川将軍の親戚、その生活は華美にして風雅、和歌に蹴鞠に書に絵画は教養として身につけねばならない。

 

また、住居は江戸と村上の両方に持たねばならない。しかも江戸の方は上屋敷、中屋敷、下屋敷の3カ所で、その規模たるや途方もなく広い。例えば、直矩の父・直基の正室が住んでいた鳥越の中屋敷では4千坪強の広さである。それが公的な上屋敷になると7千坪ほどもあった。

 

そうした屋敷には江戸詰めの侍やその家族、大名の正室や側室、その身辺の世話をする女中衆などが数百名もいたから、経費のかかることおびただしい。そうした経費の出所は、いうまでもなく年貢(租税)である。

 

一般的に、大名が領民から徴収する年貢は収穫高の4割であるが、松平家の場合は5割を納めさせた。この高率では民衆の生活は苦しい。わけて山村など狭くやせた耕地しか持たないところでは、天候不順で不作になればたちまち年貢不納に陥ってしまう。そうした百姓のとる道は、死ぬのがいやであれば先祖伝来の土地を捨てて他国へ逃亡するしかない。それを欠落[かけおち]という。

 

松平家が入封して新しく検地をし直した承応3(1654)年から8年間に、笹川・板貝・脇川・碁石[ごいし]・雷[いかづち]・大毎[おおごと]・大谷沢・小俣・中継[なかつぎ]・大代・遠矢崎[とおやさき]・中津原・中根・蒲萄[ぶどう]の各村で214人もの老若男女が庄内領に欠落している。

 

欠落は領主に対する一種の抵抗だ。彼らが土地を捨てどこかへ逃げ去ると、当然のことだが年貢未納となる。困るのは領主側である。そこで強制連行し元の村に住まわせるがまたもや逃げる。中にはその途中、餓死する者、気違い扱いにされて牢に入れられ、あげくは殺された者もいた。

 

一方、こうした潰れ百姓が職を求めて集まるのが城下町である。手っ取り早い職業が武家や商家への奉公だが、それにしても職に就ける数はしれている。城下には多くの浮浪者が横行しだす。

 

藩の執政らがその対策に困ったことは想像に難くない。そして、考えたあげく採った方策が公共事業で、それも村上城の大改修工事であったと推察されるのである。幕府に村上城修築許可申請を提出したのが、欠落者が出た年から数えて8年目のことである。そして、幕府の許可を得て工事にかかり、三重の天守閣が完成するのが翌3年11月6日のことであった。

 

その天守閣は唐破風と千鳥破風を組み合わせた屋根で、いかにも貴公子大名直矩好みの優雅な天守であった。工事はそれのみならず、他の郭にもおよんだ。新たな縄張[なわばり=設計]で、石垣を築き直し、櫓や門などが建て替えられた。

 

山上の普請が完成すると、二の丸と三の丸の各門の石垣を築き直す。この工事にも、また多くの貧困農民が集まったものと思われる。日当や延べ人数の記録は残っていないが経済効果は大きかったに違いない。これ以降、領民の集団欠落事件は見えない。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2010年4月号掲載)村上市史異聞 より

2023/04/15

027 村上城下町の発展(5)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

松平大和守直矩[なおのり]の家系についてもう少し詳しく述べると、その家祖は徳川家康の第二子・於義丸[おぎまる]である。生母は側室・於万[おまん]の方。天正12(1584)年、徳川家康と羽柴秀吉が争った小牧長久手の戦の講和に際し、家康が秀吉に人質(名目は養子)として出し、秀吉から羽柴姓と秀の字を与えられ、家康の康の字と合わせて羽柴三河守秀康[はしばみかわのかみひでやす]と名乗った。

 

所領は河内国(大阪)2万石、初陣は天正15(1587)年の豊臣秀吉による九州征伐。結城晴朝[ゆうきはるとも]の養子となり、下総国結城(茨城)11万1千石を領し、結城三河守を名乗ったのが18年8月。慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いでは、家康の会津征討に従軍、会津の上杉景勝の西上を防いだ。

 

戦後、その論功行賞により越前国(福井)68万石のほか若狭(福井)・信濃(長野)の内を合わせて75万に封じられて越前北庄城主となった。秀康の子は長男・忠直[ただなお]、二男・忠昌[ただまさ]、三男・直政[なおまさ]、四男・直基[なおもと]、五男・直良[なおよし]で、直矩の父は直基である。

 

秀康は結城姓を直基に譲り、自分は松平姓を名乗った。ところが直基は3万石で越前勝山城主となると松平姓を名乗る。同家を結城松平と呼ぶゆえんだ。以後、2万石加えられ越前大野、さらに5万石を加えられ出羽山形、さらに5万石を加えられ播磨国姫路城に移った。直矩が生誕したのは寛永19(1642)年。直基が病没したのは慶安元(1648)年だから直矩が7歳のときである。

 

幕府の畿内・西国統治は、公家や皇室の監察として京都所司代を置き、大名の統治と監視として大阪城代を置いていたが、その役務を分担していたのが姫路城である。その西国要衝の地を幼少の城主が務まるわけがない。

 

ということで越後村上城に転封となった。村上城が戦略的に重要視されたのは、戦国期から江戸時代初期の堀氏までで、上杉氏が勢力を減退させて米沢に封じられ、また山形城主・最上義俊[もがみよしとし]57万石が家中騒動を理由に改易にされ、以後山形は譜代大名の転封地となるにおよんで、村上城はその抑止力としての任務を終わった。

 

かわって徳川の最たる恩顧大名の一時の転封地として位置づけられた。そのような時代背景から、堀氏のあと、本多氏から松平氏が転入封し、未曾有の人口増になり、新たな居住空間が造られたことは前述した。その既述のほか、現杉原に与力(警察権を持つ侍)町を新設し、さらに鷹匠町(現武家屋敷公園あたり)が建設されている。

 

長じた直矩の趣味は能狂言に人形浄瑠璃、それに軍事演習と食糧確保を兼ねた青鹿[かもしか]狩りや鷹狩りである。そのため鷹匠やその下役で鷹に捕獲させる鳥の群生状態を確かめる「鳥見[とりみ]」、鷹の餌にする鳥を網で捕る「網刺[あみさし]」、鳥の群れを追い出す犬を使う「引犬[ひきいぬ]」と称する者らが40数名もいた。

 

大規模な鷹狩りは、数日間各地を移動しながら行うもので総勢160名ほど。その場所は七湊、岩船、平林、大津、金屋、黒川、築地など広大な地域であった。獲物はヒバリやウズラで、多く獲るときは518羽を記録している。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2010年3月号掲載)村上市史異聞 より

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