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むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

このコンテンツでは
過去の「昔のことせ! ー村上むかし語りー
再掲しています。

 

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著者は村上市の郷土史研究家
大場喜代司さん(故人)です。

 

石田光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。

 

2023/03/15

026 村上城下町の発展(4)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

慶安2(1649)年に村上城主となった松平直矩[なおのり]は15万石を領した。高田城主23万石の松平光長[みつなが]とは従兄弟で、親同士は徳川家康の孫である。ゆえに家格が高く、威勢がよかった。直矩の家臣数は明らかでないが、多人数におよんだことは想像できる。当然、侍屋敷が不足する。

 

そこで堀片の町人を現在の片町に移して、その跡地に小姓屋敷を造った。また杉原に与力町、久保多町裏や鍛冶町の北裏に足軽長屋を増築した。桜ヶ丘高校から西宝院の南側一帯の広大な空地には、徒士[かち]侍を収容するため、駒込一番町から四番町までの町を造り、150余名を入れた。この後、寛文7(1667)年に榊原政倫[さかきばらまさとも]、宝永元(1704)年に本多忠孝[ほんだただたか]と入転封がなされるが領地高は変わらなかった。

 

榊原家での侍数は573人、足軽・中間[ちゅうげん]合わせて1,117人で、堀氏時代より300人余の増加でこれにその家族が加わる。この急増した消費者をまかなうためには、多くの商工業者が必要になったことはいうまでもない。

 

町人の人口は9,223、男4,503、女4,493、僧154、行者12、山伏40、神主10であった*。町人のうちから武家奉公にあがった者は1,000余名に達した。
*数字は資料のまま

 

職業は多い順から列挙すると大工147人と最多で、豆腐屋65軒、穀物屋63軒、木挽[こびき]60人、桶屋53軒、八百屋42軒、打綿[うちわた]屋39軒、鍛冶屋37軒、油屋34軒、紺屋31軒、米屋29軒、質屋と屋根屋が25軒ずつ、糀屋と酒造屋が21軒ずつ、味噌醤油屋17軒、旅籠屋と桧物[ひもの]屋が16軒ずつ、萱屋根葺[かややねぶき]と畳刺[たたみさし]が15軒ずつ、塩屋14軒、塗師12軒、簀編[すあみ]屋10軒、材木屋と小間物屋と仕立物屋が8軒ずつ、出店酒[でみせさか]屋と足駄[あしだ]屋が7軒ずつ、薬屋と鞘師[さやし]と石屋と鋳懸[いかけ]屋と傘張[かさより]が5軒ずつ、素麺[そうめん]屋と研[とぎ]屋と柄巻[つかまき]屋が4軒ずつ、温飩[うどん]屋と蝋燭[ろうそうく]屋と壁塗[かべぬり]が3軒ずつ、金具屋と鍋屋と表具屋と湯屋が2軒ずつ、蒸餅[じょうへい]屋と合羽屋と呉服屋と乗物[のりもの]屋と鋳物師[いものし]と扇子[せんす]屋と石切[いしきり]屋と刻煙草[きざみたばこ]屋が1軒ずつ、このほか医師本道[ほんどう=内科]15人、針医11人、目医師1人、外科1人、馬医1人がいた。伝馬[てんま=逓送用の馬]は16頭に定められた。『宝永二年村上寺社旧例記』による。

 

屋根屋は木羽葺ゆえに萱屋根葺とは別で、出店酒屋は酒の小売り、鋳懸屋は鍋釜の修理、鋳物師は鐘・鍋などの鋳造、鍋屋は鍋などの小売り、石切屋は原石の切り出しで、石屋はその加工職人。

 

湯屋は銭湯、乗物屋は駕籠屋、壁塗は今日でいう左官である。このうち侍の生活に必要欠くべからざる職業は研屋と柄巻屋・鞘師であるが、刀鍛冶や馬具師や鎧師・弓師・鉄砲張[てっぽうはり]がいないのはなぜか。その理由は、彼ら武器製造に携わる特殊技能を持った職人の多くは、侍の身分を与えられていたからであった。

 

ともあれこれら職業の中で瞠目すべき人数は大工である。その背景には、侍屋敷の増築もあったが、城郭の大修理工事もあり、各地の大工が流入したためである。その話は次回にゆずる。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2010年2月号掲載)村上市史異聞 より

2023/02/15

025 村上城下町の発展(3)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

村上城下初期の姿を記録した史料は、寛永12(1635)年の『村上惣町[そうちょう]並[ならび]銘々軒付之帳[めいめいのきつけのちょう]』で、内容は(1)(2)で紹介した。その時から70年を経た宝永2(1705)年では、いずれの町内とも軒数、世帯数とも急増している。また、加賀町や久保田(多)町も見られる。同町の成立年は明確さを欠くが、加賀町の成立は松平直矩[なおのり](15万)が姫路から転封されてきた慶安2(1649)年以後である。

 

それでは、どのように変貌を遂げたかを宝永2年の『村上寺社旧例記』にみると、羽黒町家数47軒、竈[かまど]数(世帯数)108軒。神社では羽黒神社、八幡宮、修験山伏の万宝院、正学院があり、寺院では常福寺、善沢寺、万福寺、長楽寺、龍皐院、妙心庵、観音寺、成就寺、天休院があった。

 

長井町は44軒、竈数71軒。寺院は浄国寺、行恩寺、広雲寺である。

 

上町は36軒、竈数32軒とある。大町は37軒、竈数31軒、寺院には十輪寺がある。

 

小町は47軒で竈数73軒。寺院は安善寺と法音寺である。

 

庄内町は74軒、竈数117軒に達している。寺院は専念寺と善龍寺であるが、修験は意伝[いでん]、養楽院、持福院、威徳院、知楽院、三明院の6院で、その統轄が意伝と称する山伏である。

 

加賀町は30軒、竈数80軒。修験の養福院、観宝院がある。

 

久保田町は53軒、竈数128軒で鋳物師屋敷が1軒。この鋳物師は、もと柏崎の大窪村にいた兵太夫(平野)をときの城主・榊原式部太輔が、寛文8(1668)年に村上城下に移住させ、同町の観音堂土居外(現 秋葉神社裏)に住まわせたものである。

 

片町は、堀片地内にあったものを松平直矩在城の寛文5(1665)年に現在地に強制移転させられたもので、88軒、竈数219軒に達していた。この軒数の急増ゆえ、のちに上片町と片町に分かれる。修験の智善院と観照院、真言宗の自在院、湯殿山行者の宝性寺があった。

 

塩町は松平直矩時代に現在の寺町地内から移ったもので、83軒、竈数198軒に急増している。寺院は地蔵院、修験は鐘学院、善明院、宝明院(観音堂)がある。

 

寺町は37軒、竈数73軒。寺院は浄念寺、その境内に正覚院と西福院がある。また経王寺、長法寺、妙法寺、西真寺があり、修験は大聖院と極楽院の両院である。

 

大工町は19軒、竈数44軒。寺院は善行寺と光済寺、湯殿山行者である。

 

小国町は60軒、竈数116軒。寺院は妙性寺、修験は宝積院と本妙院があった。

 

鍛冶町は21軒、竈数55軒。十二社神社が足軽組屋敷内にあった。

 

肴町は65軒、竈数140軒。寺院は最念寺、西宝院、真福寺、弥勒寺、観音寺、得願寺で、神社は川内大明神が馬喰町氏子持ちとしてあった。

 

細工町は47軒、竈数110軒。茶子町7軒、竈数22軒。六間町12軒、竈数23軒、寺院に本悟寺と西教寺があった。かつて新町と書いた安良町[あらまち]は42軒、竈数81軒。

 

城下の総家数831軒、竈数1699軒におよんでいた。もちろん商工業者の数も急増している。そのことは次に譲る。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2010年1月号掲載)村上市史異聞 より

2023/01/15

024 村上城下町の発展(2)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

城下での職業集団は、大工町の大工9軒と鍛冶町の鍛冶16軒で、職業保護として無役(免税)の特権を与えられていた。

 

その他の職業を町内別に見ると、長井町に油屋、上町に風呂屋、庄内町に駕籠[かご]屋、新[あら]町に茶師(製茶師)がそれぞれ1軒ずつ。大工町には大据挽[おがびき=木挽]、桶屋、塗師[ぬし]が1軒ずつ。また小国町には研[とぎ]師、彫物屋、油屋、駕籠屋、馬喰[ばくろう]、大工が1軒ずつ。本塩町にはあかし屋(灯明)、葺屋[ふきや=屋根屋]、油屋が1軒ずつ。長岡町には大工1軒となっている。

 

馬喰町は馬喰(牛馬の売買や馬医)などがいた町であろうが、その人数は記されてない。が、8軒が無役の扱いを受けていたのでその人々が該当しよう。

 

片町は堀片にあった町ゆえについた町名で、久保多町はいまだ成立していない。ゆえに庄内町は出羽庄内道の出入口にあったためについた町名であろう。

 

以上のような職業分布をみると、建築関係と運輸業に携わる者が多く、風呂屋や茶師は異色である。また衣食業や他の消費物資の製造販売業者は皆無である。

 

およそ消費的商工業都市とは言いがたく、軍事的な防衛都市の臭いが濃厚であった。けれどこの時代の畿内では、流通経済都市としての城下町がすでに形成されていたから、町造りを推進する、城主・堀直竒[ほりなおより]や彼の側近の脳の中には、防衛と相挨[あいま]った経済中心の町の姿が描かれていたことは間違いない。以後はその方針通り、町は急成長を遂げてゆく。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2009年12月号掲載)村上市史異聞 より

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