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むかしの「昔のことせ!」 むかしの「昔のことせ!」

 

このコンテンツでは
過去の「昔のことせ! ー村上むかし語りー
再掲しています。

 

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著者は村上市の郷土史研究家
大場喜代司さん(故人)です。

 

石田光和さんによる
イラストとともにお楽しみください。

 

2022/12/15

023 村上城下町の発展(1)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

堀丹後守直竒[ほりたんごのかみなおより]が入封[にゅうほう](領主が初めて領地に入ること)し、建設された村上城下には、羽黒町39軒、長井町42軒、六間町8軒、上町36軒、本加(鍛)冶34軒、大町37軒、小町34軒、下小町13軒、庄内町69軒、片町61軒、新[あら]町41軒、大工町19軒、小国町60軒、本[もと]塩町20軒、寺町28軒、新鍛冶町16軒、肴町42軒、長岡町12軒、馬喰町41軒、合計652軒であった。

 

この内、本鍛冶町は細工町にあり、本塩町は免町とも称し、寺町の東半分の場所にあった。

 

軒数は村上氏時代に比べると急増である。では、この人々はどこから入ってきたのだろうか。半強制的に村を潰して移住させられたと考えてよい。羽黒町の住民は、もと羽黒口あたりに住んでいた人々だし、長岡町は堀直竒が、前任地の長岡から連れてきた住民である。

 

また、堀時代を遡ること21年前、山居山の南側には垣茂村、松山村、とどめき村、ミ[み]なくち村、城下の東に中町村があったが、その後は姿を消すことから、これらの住民もまた新村上の住民となって町内を形成したものと考えてもよい。中貝村はのちに長岡町と馬喰町とともに肴町に入るが、この時点での中貝村は足軽(兵卒)屋敷地であった。防御を重要視した地域は、城下の南口にあたる羽黒町で城主や家老の屋敷を配した。また、東口の片町には10人の鉄砲足軽を置き、庄内町にも4人の鉄砲足軽と1人の槍足軽を配した。北面の小国町にも鉄砲衆を配置、その裏から肴町裏にかけても足軽屋敷で固めた。また、馬喰町の西端にも鉄砲屋敷があった。南面には飯野の侍屋敷がある。このように町人地といえど、兵卒との混成地であった。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2009年11月号掲載)村上市史異聞 より

2022/11/15

022 村上城下(5)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

桝形[ますがた]は、それぞれの城門には必ず付属する設備で、門の外側に付く桝形を外桝形、内側に付くそれを内桝形と呼ぶ。そのほか、城下町の出入り口や防御上の重要地点にも設けられる。形式は高い石垣や土塁で方形に囲み、入り口を喰い違いにする。そして外側には堀を巡らす。

 

久保多町と庄内町の境にあった桝形の規模は、一辺が約52.2mのほぼ方形であった。高さは約3.6mと推察される。これに次いで大きい桝形は肴町の西端にあったが、その寸法は残念ながら分からない。ただし、遺構として堀の一部が現存する。

 

水をたたえない空堀であるが、深い薬研堀[やげんぼり](V字形)で、いかにも城下の入り口を堅固にするために設けられたことがうかがえる。

 

このほか、羽黒町の牛沢口、羽黒町と長井町の境、片町の庚申堂に設けられていた。機能としては、侵入する敵をその中に誘い込み、門櫓の上や土塁上などから弓や鉄砲で狙い撃ちにするというものである。

 

そして、この内部の一隅には地鎭のために寺社を祀る。肴町の桝形前には河内神社を祀り、片町の桝形内には宝性寺が置かれた。のち寛文7(1667)年、城主 榊原式部大輔政倫(さかきばらしきぶのたゆうまさとも)のときに庚申堂が安良町から移されて祀られた。城の鬼門鎮め[きもんしずめ]のためと言い伝えられているが、実は同所は城の鬼門には当たらない。

 

そこから方位を見ると、ちょうど安良町と上町大町の境であった札の辻[ふだのつじ](城下の中央で掟書を掲げる場所で、米沢道や出羽道の出発点)の北東(表鬼門)にあたる。ということは、同所の宗教的施設はあくまでも村上城下町の鬼門鎮めが目的である。

 

これら桝形は、町人の労力奉仕によって完成されたものだから、城主 堀直竒はその労苦に報いるため、地子[じし](地税)を免除した。とはいえ、税の免除は人口増が目的であろう。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2009年10月号掲載)村上市史異聞 より

2022/10/15

021 村上城下(4)

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イラスト:石田 光和(エム・プリント

 

大名 堀直竒の石高は10万石であったが、将軍家の脇備[わきぞなえ]ゆえ大きな軍備で侍数380、足軽(兵卒)1000、内高[ないだか]は21万石余に上った。幕府内での堀は無役であったが談伴衆の一人であった。その役目は、将軍に天下の情勢や軍事、経済、学問の話を聞かせることを目的としたもので、武功者や学者などが選ばれた。

 

堀が村上に転封した理由は、米沢の上杉を牽制するためである。城下を拡張して城を堅固にしたことは、防衛都市にすることはもちろん行政・経済の中心地にすることであった。

 

その防衛地域内に町人地を包含した一つの理由は、民衆を敵の略奪・暴行・拉致から守るためでもあった。道路は容易に城に近付くことができぬよう、また槍などを振り回すことができぬよう、狭いところでは約1.5m、広い所でも約5.4mでしかない。また敵の視界を遮[さえぎ]るため交叉点を多くし、四つ角は喰い違いにする。

 

城下の出入口には防御用の桝形を造り、城主や重臣の下屋敷(別邸)を置いた。また、鉄砲足軽の長屋を置き防備させた。羽黒町の東端南側に城主の屋敷、その向かいには家老 野瀬右近の下屋敷を設け、片町には10人の鉄砲衆と長柄衆(槍足軽)を配置した。

 

この当時、片町は堀片にあり(堀の片側にあった町ゆえ片町の名が付いた)、城下の東を防備していた。

 

また、鍛冶町と小国町の境には大門を設け、小国町には十人組頭と鉄砲衆を配置している。十人組頭は、初め京都に設けられた警察権を持った職務であるから、小国町は肴町の桝形と相まって警備の任を負わされていたものと推察される。

 

桝形の機能や位置については次に述べる。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2009年9月号掲載)村上市史異聞 より

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